表現の自由戦士には「殺意」が足りない
キャンセルカルチャーへの問題意識がますます高まっている。
4月8日には歴史ある総合雑誌「中央公論」においてキャンセルカルチャー特集が組まれ、4月20日にはこれまた歴史ある左派系雑誌「情況」においてキャンセルカルチャー特集が組まれた。今やキャンセルカルチャーは「ネット炎上」の枠を超え「社会問題」としての立ち位置を確保しつつあるように見える。
筆者はどちらかと言えば「キャンセル」より「表現の自由」に親和的な立場だ。キャンセルカルチャーに加担する連中の破綻した論理は見るに堪えないし、自らの権力性に徹底して無自覚な様も醜悪極まると感じる。おそらく「キャンセル」加担者からすれば自分は「表現の自由戦士」の一派と見做されているのだろう。まぁ、強くは否定しまい。
そうした立場からあえて発言したいのだが、筆者は現行の「表現の自由」派にも強い不満を持っている。今の運動をこのまま継続してもキャンセルカルチャーは永遠に滅ぼせないだろう。当たり前の話で、「表現の自由」派は「キャンセル」派になんらダメージを与えられていないからだ。
いま、「キャンセル」に加担する者たちはノーリスクで運動を展開している。ときに彼らは事実を捏造し、誹謗中傷を繰り返し、私企業の業務を妨害し、特定のジェンダーに対するヘイトをまき散らしたりもしているが、それらの蛮行に対する責任を一切問われていない。一方的な攻撃者として振舞っている。
そうした状況が続くなら、キャンセルカルチャーが終わるはずもないだろう。キャンセルが成功すれば良し、失敗してもまた別の機会に火を付ければ良いのだ。「他人に危害を与えても処罰されない立場」が保証されているのだから、他人に危害を与えることをやめようとするはずがない。キャンセル加担者がノーリスクで運動を展開している現状を変えなければ、キャンセルカルチャーという現象はこれからも永遠に続いていくだろう。
思うに、「表現の自由」派に抜けているのは「処罰」の視点である
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