一口エッセイ:作家の条件
というわけで、12月から1月にかけてColabo(とWBPC)関連の記事がだいぶ連続してしまいました。これに関しては読者のみなさんから頂く反応も半々で
というものもあれば
というものもありました。まさしく賛否両論。ブチ切れて1ヵ月くらいシンエヴァについての記事しか書かなかった時期は9割5分くらいが「否」だったわけですから、この2年ほどでずいぶん発達したものだと自分を褒めてやりたくなります。
Colaboについての記事も、また他のテーマについての記事もそうなのですが、「何を書くか」の選択と決断って結構難しいんですよね。
自分は昼職もあるので週に1-2本しか記事を生産できない。その限られたリソースを何をテーマにした記事に費やすか?というのは常に悩みの種です。ただ、ひとつの基準みたいなものは設けています。「その記事をいま自分が書く必要性があるのか」。この「必要性」ということを常に意識し続けています。
ちなみにこの基準の元ネタは村上龍の『13歳のハローワーク』です。作家志望者の「作家の条件とは何か?」という問いに村上龍はこう答えます。
あらゆる作家論の中で最も含蓄がある言葉だと自分は思っています。特に作家業を「情報通信業」として定義しているのが良い。たいていの作家論では作家は「芸術家」として規定されてるんですが、作家がお芸術を目指すとゴミしか生産できなくなるというのは現代アートというカスジャンルが我々に示唆するところでしょう。
作家の仕事とは戦争時における偵察兵みたいなものだと自分は思っています。まだ世に知られていない、にも関わらず重要性を持っている物事や価値観をいち早く見出し、世の中の多くの人に伝わる言葉でそれらについての情報を広めていく。それが作家の仕事です。
テキストの形態がどのような形を取るかはあまり本質的ではありません。小説でも、随筆でも、論文でも、もちろんツイートでもブログでもいい。「伝える必要と価値のある情報」を伝えられるならテキスト形態はなんでも良い。
だから作家という職業において、「文章を上手く書く」ことはあまり本質的なスキルセットではないと自分は思っています。上手い文章よりも「書くべき何か」を見出せるかの方が100万倍重要です。世界に伝える価値と必要性のある(だけど知られていない)情報を持っているか。その情報をわかりやすい形で表現することができるか。この二つの能力を十全に備えているなら、作家として食っていくことはそれほど難しい話でもないと思います。
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Colaboについて話を戻すと、このテーマは上基準ど真ん中みたいなテーマだったんですよ。会計面や行政制度面からWBPCのずさんさを指摘する人がまま居ましたが、福祉的な面からその問題性を指摘する人は皆無と言っていいほど居なかった。
自分がWBPC問題についてコミットし始めたのは2022年の9月中旬ごろですが、それから4か月経ったいまも「対人支援としてColaboの支援は適切なのか」というテーマに切り込んでくれる書き手は出てきていません。まぁこの業界はめちゃくちゃ狭いんで他所様の悪口を言いにくい構造があるんですが、それにしたって自分しか居ないというのはどうかと思います。
「世界に伝える必要と価値のある情報」を自分が持っていて、しかもそれが他の誰からも伝えられていない。この二つの条件が完璧に揃ってしまったというわけで、Colabo問題にはだいぶ深くコミットすることになってしまいました。正直あそこら辺の連中ってスラップ訴訟や有形無形の嫌がらせの常連なので損得勘定で考えたらスルーしたい気持ちもだいぶあったんですが、そこで難を避けるようなのはダメやろという感もありこんなことになってしまった。
いちおう「対人支援としてのColaboの問題点」として提出したい話題は大半を出し終わったので、次からは別のテーマの記事を書いていくことになると思います。あーでも現状「Colabo問題まとめ」系の記事がどれもあんまクオリティ高くないので無料記事でそれを書きたい気持ちはある。わからん。まぁ少なくとも何本か別テーマを書いてからですね。
というわけで読者からのご意見・要望が多かったColabo問題に対する執筆スタイルのお話でした。
マシュマロに投げて頂いたご意見は全て目を通してるので「この記事は良かった」「この記事は微妙だった」「こういう話を書いて欲しい」「もっとこういうのが読みたい」みたいなのがあったら気軽に送ってください。みなさんが思ってる以上に我々は読者の声を気にしてますんで。
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