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「心の時代」の終わりと始まり

かつて「心の時代」と呼ばれる一時期があった。

もちろん明確な定義などないのだが、自分の感覚としては1980年代初等から2010年あたりまでの期間がその時代に該当すると考えている。特に1990年代における心理学ブームは凄まじいものがあり、フロイトやらユングやらの解説本が雨後の筍のようにポコポコと発売され、大学の心理学部は全学部屈指の倍率を誇った。

しかしそのような時代は、どうやら終わってしまったらしい。心理学を志望する学生の数は往年の半分程度にまで落ち込んだし、「心」に何か深遠なものを見出そうという風潮はほとんどノスタルジーを感じさせるほど古臭いものになってしまった。「心の時代」は終わってしまったのだ。

「心の時代」はなぜ終わってしまったのだろう。

いやそもそも、なぜ「心の時代」は始まったのだろう。

実は「心の時代」の前には、同じく隆盛を誇りそして終わっていった「政治の時代」があった。この二つの時代は密接に関係しているのだ。

本稿では「心の時代」と「政治の時代」の相補性について、二人の著述家を紹介しながら綴っていこうと思う。


「政治の時代」の始まりと終わり

日本における「心の時代」は1980年代から始まった。それではその前はどのような時代だったのだろう。戦後史に詳しい方ならご存知かもしれない。「政治の時代」がその直前には存在した。大きな構図としては米ソ冷戦が存在し、より小さな構図としては1956年から20年あまり続いた学生運動の時代があった。

学生運動の起点は1956年のスターリン批判に遡る。全世界の共産党にとって神にも等しい存在だったスターリン。彼が後継者であるフルシチョフから徹底的に批判されたことで、全世界の共産党は危機に陥った。共産主義政党としての正統性を強く疑われるようになったのだ。

そして生まれたのが新左翼運動だ。資本主義政府には当然のこと反対し、しかしながら自国共産党とも対立する。「新」しい「左翼」の「運動」家たち。彼らこそが60年代、70年代という時代のメインプレイヤーだった。

しかし彼らの運動は70年代後半には失速した。「内ゲバ」の名で知られる新左翼諸派の凄惨な暴力事件は一般大衆の強い不興を招いたし、ウーマンリブや華青闘告発に端を発した「マイノリティ」路線は一般労働者の左派離れに繋がった。なにより高度経済成長によって日本人は急速に豊かになりつつあり、「資本家によって労働者は虐げられている」という古典的マルクス主義のテーゼは最早人々の心を捉えることができなくなった。

そうして始まったのが1980年代だ。豊かさと、大量消費と、政治的無関心の時代。この時代の若者は「シラケ世代」「ノンポリ世代」などと呼ばれていたのだが、それは彼らが(60-70年代的な)政治闘争に全く無関心であり、ごく個人的な消費・文化活動にのみ関心を向けことに由来している。

サブカルチャーにおいてはオタク文化の萌芽が始まり、アカデミズムにおいてはポストモダン思想が急速に広がっていく。

「政治の時代」は終わり、80年代が幕を開けた。


「心の時代」の80年代

政治闘争から足を洗い、個人的な消費・文化活動に向かった80年代の若者たち。そんな彼らを捉えたのが心理学や精神医学や宗教などの「心」の知的体系だった。それにしてもなぜ、彼らは急に「心」に目覚めたのだろう。

70年代以前は、「生きづらさ」の原因は外部にあるとされていた。

なぜあなたは苦しいのか。それは資本家が労働者を搾取し、あなたは貧しい生活を送らねばならないからだ。

なぜあなたは苦しいのか。それは帝国主義的政府が侵略戦争を起こし、その兵士として望まぬ従軍を強いられているからだ。

なぜあなたは苦しいのか。それは重化学工業が川に空に公害をばら撒き、あなたの健康を損なっているからだ。

なぜあなたは苦しいのか。それは〇〇という社会構造が××という不利益をあなたに与えているからだ───。

「生きづらさ」の原因を「外部」に求めること。それが「政治の時代」の常識であり、政治活動という営みの本質だった。政治活動家の外山恒一は、自著の中で「政治活動」を以下のように定義している。

ほとんどすべての人は、生きていく上で、何らかの不満や苛立ち、怒りや焦りや、周囲への違和感といった、いわば"生きがたさ"のようなものを抱えてしまうものです。

Aさんが"生きがたい"理由は、突き詰めていけば結局二つしかありません。Aさん個人の資質や性格に問題があるか、社会や時代の状況に問題があるか、のいずれかです。

前者である場合には、これはもうAさん自身が個人的に努力して何とかするしかありません。しかし後者である場合には、Aさん一人の努力ではどうにもなりません。

(中略)

ある個人が抱えている"生きがたさ"のうち、時代や社会の状況に原因がある部分については、他の個人と問題意識を共有し、協力して解決の努力をすることが可能です。この努力が要するに、「政治活動」なのです。

(引用:外山恒一「政治活動入門」P6~)

政治の時代においては、「生きづらさ」の原因は外部にあった。戦争、貧困、富の不均衡、公害…。確かに戦後期の日本において、その世界観は一定のリアリティを有していた。

しかしそのような世界観は80年代までに終わりを迎えた。高度経済成長、社会福祉の充実、ベトナム戦争の終結、米ソの緊張緩和とソ連の衰退、公害訴訟の進展…。様々な要因があるだろうが、「ある程度、平和で豊かで平等な社会」を手にした80年代の若者たちは、もはや自分たちの生きづらさの原因を「外部」に求めようとは思わなかった。

そうして「心の時代」が始まった。

なぜあなたは苦しいのか。それは幼少期のトラウマがあなたの性格に影を落としているからだ。

あなたはなぜ苦しいのか。それは物質中心主義の世の中でほんとうに大切なものを見失っているからだ。

あなたはなぜ苦しいのか。それは発達障害で社交不安障害でパニック障害でうつ病だからだ。

「生きづらさ」の原因を、社会という「外部」ではなく心という「内部」に求める。80年代以降の心理学ブームは政治運動を完全に過去の遺物にした。

「心の時代」が始まった。


「内」と「外」の縄張り争い

「生きづらさ」の原因を「外部」に想定する政治運動家
「生きづらさ」の原因を「内部」に想定する心理臨床家

ここまで読んだあなたはこうも思ったのではないだろうか。「一体、どっちが正しいんだ?」と。

当たり前の答えで恐縮だが、それは時と場合によるというのが自分の答えだ。

例えばこんなケースを考えてみよう。

ある日、大きな地震が起こって津波が街を押し流した。Aさんは住む家を失い、家族の安否も不明で、今日の寝床や食べ物すらおぼつかない。被災したAさんは当然「生きづらさ」を感じている。

さて、Aさんの「生きづらさ」の原因は「外部」にあるだろうか「内部」にあるだろうか。当然のことながら「外部」にある。彼に必要なのは避難所や食料や毛布や捜索隊だ。心理臨床家の出る幕はない。

それでは次のケースはどうだろう。

被災から10年後。家族と無事再会し、避難所から新しい街へ引っ越したAさんはようやく平穏な暮らしを取り戻していた。しかしAさんは毎夜被災の悪夢に襲われ、満足に眠ることもできなくなっていた。Aさんは今「生きづらさ」を感じている。

Aさんの「生きづらさ」の原因は「外部」にあるだろうか「内部」にあるだろうか。被災という「外部」の事象がきっかけになっているとは言え、Aさんの苦しみは高確率で心的外傷から生じている。この場合、政治運動家はAさんの役に立つことはできない。必要なのは心理療法家だろう。

このように、「生きづらさ」の原因は「外」にも「内」にもある。ゆえに問題解決を適切に行うためには、当事者の抱える問題を正確に分析しなければならない。心理臨床家はそのプロセスを「心理アセスメント」と呼び、政治運動家は「情勢判断」などと呼ぶ。意味は大して変わらない。問題の原因を正確に見極め適切にアプローチするための問題理解を指す。

しかしヒトが抱える問題はときとして境界的な様相を示すことになる。以下のようなシチュエーションを考えてみよう。

被災から20年後。Aさんは被災地に残した先祖代々の墓地を気に掛けていた。自分の祖父母が眠る墓地を蔑ろにすることに罪悪感を覚え、墓地をせめて今住んでいるに移したいと考えている。しかし墓地は帰宅困難地域にあり立ち入ることができない。Aさんは再び「生きづらさ」を感じている。

この場合、問題は「内」と「外」どちらにあるだろうか。ここに来て「内」の専門家と「外」の専門家は正面から対立することになる。

おそらく心の専門家なら、Aさんの墓地に対する執着心をなんとか解きほぐすことを考えるだろう。墓地の改葬に物的な緊急性はない。Aさんの「内部」さえなんとかすれば問題は解決すると考える。

しかし政治運動家なら、Aさんの「生きづらさ」は被災地復興を蔑ろにする政府の怠慢だと考えるだろう。Aさんの生きづらさは被災地の復興行政という「外部」の問題であり、Aさんを助けるためには被災者を巻き込んだ政治運動こそが肝要だと考える。

もちろん、両者の考えはそれぞれ正しい。

人々の抱える「生きづらさ」の原因を、明確に「内」と「外」に分けることは困難を極める。多くが内外の問題が複雑に絡み合った結果として現出しているし、片方の視点のみで問題を解決できるケースはそれほど多くない。内外を織り交ぜた折衷的なアプローチこそが多くの場合は正解に近い。

しかしこのような「境界的」なケースに出会ったとき、「内」と「外」それぞれの専門家は「自分の領域のアプローチこそが正しい」とナワバリバトルを始めてしまうのだ。それは職業的専門家の本能とも言える行為だが、しかしもちろん悪影響は否定できない。

心の時代は、「外部」によって生じている困難さえも「内部」さえ変えれば解決するのだという風潮も生み出した。その一例が自己啓発ブームだが、貧困や孤立などの構造的問題を「内心」の問題に帰着させる風潮や、問題解決のため安易に「内心」に介入する風潮も生んだ。それらの責任の一端は明らかに「心」の専門家たちにある。

もちろん政治運動家も無謬ではない。本来であれば心の問題として扱うべき様々な事柄を、政治運動家はあまりにも軽率に社会問題化した。ときには心の治療を求める人々に政治運動を処方することさえ行った。運動のために個々人の内心を踏みにじってきた政治運動家の歴史は、批判的に総括されなければならない。

「心の専門家」と「政治運動家」は構造的にある種の緊張関係を持つ。もちろん本来であれば排他的な関係ではないのだが、立脚する世界観とアプローチの違いからしばしば対立関係に陥ってしまうのだ。

いずれにせよ、「政治の時代」の退潮と共に「心の時代」が訪れた。

しかし今、「心の時代」は終わりを迎えようとしている。


「心の時代」の終わり

「政治の時代」の退潮と共に「心の時代」が始まった。しかし「心の時代」もまた終わろうとしている。心理臨床家の東畑開人は、著作の中で「心の時代」の終焉について以下のような見解を述べている。

心理学には本当にたくさんの論文や本があって、理論や知識はありふれている。それなのに、どのテーマも現代の読者たちに響くようには到底思えなかった。この時代に切実な心の話とはなんなのか。まるでわからなかったのだ。

ヒントが欲しくて、新聞を読んだり、テレビを見たり、SNSを巡回したりもした。だけど、そこにあったのは、政治とか経済とかのとてつもなく大きな話ばかりで、心を描くための小さなエッセイで扱えるようなことではなかったのだ。

おかしい。心が見つからない。心はどこへ消えた?
心の深いところを模索する心理療法は、かつては賞賛されていたけれど、今では多くの批判にさらされるようになった。
心をケアするために、内面ではなく、外界を整備することの重要性が強調されるようになった。たとえば、住まいを提供したり、生活費を支給したり、労働環境を変えたり、問題は心ではなく、環境なのだと言われるようになった。メンタルヘルスの最前線は、経済的・社会的な問題への移っていったのだ。
(心理臨床の退潮について)もっともシンプルに語ろうとするのであれば、私はそれを日本社会が貧しくなったせいだと言ってみたい。

そう、「物は豊かになったが、心はどうか」というあの言葉には深い洞察があったと思うのだ。

心の時代、日本は豊かだった。「ジャパンアズナンバーワン」と言われたように日本経済は絶好調で、世界第2位の経済大国にまで上り詰めていた時代だった。

それでいて、「一億総中流」という言葉が流行していたように、格差も小さかった。もちろん、実際にはさまざまな格差や差別があったのだが、それでもそういう幻想をもてるくらいには、社会が安定していたということなのだろう。

だからこそ、安心して物を否定することができたのだ。否定しても、決して壊れないくらいに、社会は豊かだった。そういう時代だったから、人々は安心して内面へと関心を向けることができたのだ。

心は物の反対である。ただし、そのためには物が「確か」でなくてはならぬ。

だけど、そういうリアリティは消えてしまった

(引用:東畑開人「心はどこへ消えた?」序文より)

「心の時代」の退潮の原因を、東畑開人は日本社会の衰退に求める。それは真理の一面をついている。

生きづらさの原因を外部に求めた「政治の時代」は、高度成長を始めとする物的な豊かさの実現によって幕を閉じた。そして生きづらさの原因を内部に求めた「心の時代」が始まり、それも物的な豊かさが失われたことによって再び幕を閉じた。

東畑は「大きすぎる物語は小さな物語を想像することを難しくする」という表現で、政治の時代が「内心」を不可視化することに警鐘を鳴らす。

しかし「『外』と『内』の縄張り争い」という表現で前述したように、「小さな物語」もまた「大きな物語」を想像することを難しくした。

社会構造の問題が内心の問題に矮小化され、貧者の阿片として自己啓発ブームが勃興し、メリトクラシーによって構造的格差を個々人の問題として不可視化させる風潮も生まれた。

さらには「内心」に介入する規律型権力の伸張をも許すことになった。ポリティクス・コレクトネスを始めとする新しい権力の形は、問題解決の手段として内面に介入する時代の必然的な帰結でもある。

小さすぎる物語もまた、多くの人々の声を吹き飛ばしてしまったのだ。

しかしそんな「心の時代」も豊かさの喪失と共に終焉を迎えようとしている。それでは再び昭和的な「政治の時代」が始まるのだろうか。

否、というのが自分の予測だ。以下の部分では「大きな物語」と「小さな物語」が共に不可能化した現代が辿る未来について、筆者の予測を記す。

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週に1-2回程度更新。主な執筆ジャンルはジェンダー、メンタルヘルス、異常者の生態、婚活、恋愛、オタクなど。

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