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カスとしか言いようのない米国の教育制度と、アファーマティブ・アクションがあの国で必要だった理由

いわゆる大学入試の「女子枠」の話題が盛んである。

2022年に実質男子校と名高い東京工業大学が先鞭をつけ大いに話題になった大学入試の「女子枠」だが、その後も国立大学を中心に導入が相次いでいる。東京工業大学、金沢大学、京都大学など国公立は既に10大学が「女子枠」を新設し、私学も含めると既に15大学が女子枠を設けているらしい。

「女子枠」新設は各大学独自の施策というよりは文科省主導の教育政策というべきものであり、今後も「女子枠」の新設は加速度的に増加していくだろう。合衆国の大学入試におけるアジア系差別のように、「男女が同じ成績なら男子はワンランク下の大学に行くのが当たり前」という状況が生じるのも遠い未来のことではなさそうである。

ところで筆者が気になっているのが、こうした異常な女性優遇施策をアファーマティブ・アクションという名で呼ぶ人が多いことである。

なるほど、確かにそうした側面がないわけではない。大学入試における優遇措置はアファーマティブ・アクションの柱のひとつであり、先日米最高裁で違憲判決が出たとは言え長年アメリカの教育政策における大きな特徴のだった。その日本版が大学入試の「女子枠」であるという理解をしている方がいるのも致し方ないところがある。

しかし断言しておくが、日本の大学入試における「女子枠」と、合衆国の「アファーマティブ・アクション」はまったくの別物である。

同じなのは入試における優遇措置という点だけで、その政策意図も、実施の背景にある国内事情も、なにもかもが根底から異なっているからだ。

というわけで本稿では本場アメリカの「アファーマティブ・アクション」について、その歴史と意義と背景を簡単に解説していこう。

なぜアファーマティブ・アクションがアメリカにおいて歴史的に必要とされたのか。なぜ日本において同様の政策を取り込むことが愚策としか言いようがないのか。こうした議論に興味のある方はご一読いただければ幸いである。


カスとしか言いようのない米国の教育事情

教育政策としてのアファーマティブ・アクションについて理解を深めるためには、まずはそれが求められた米国の国内事情を知っておかねばならない。

まず日本人が最初に理解しなければならないことは、アメリカの教育システムのとんでもないゴミっぷりについてである。ゴミというか、筆者としては「未開」という印象すら抱く。ここまで遅れた、質の低い、不平等で差別的な教育制度を存置させていることに、全アメリカ人は羞恥心を抱くべきだと筆者は本気で感じている。

アメリカの教育制度の特筆すべき特徴は、その分権的性格である。公教育を行う主体が「学区」(school district)と呼ばれる極小の行政組織なのだ。この学区は米国内に1万以上存在し、つまり「国」どころか「州」よりも「市」よりも「町」よりも小さい。極めて小さな住民数千~数万の「地区」レベルで教育行政が実施されている。驚くべきことにこの「学区」は学校税(school tax)などを課す徴税権すら有しており、こうした学区の独自財政で公教育を賄っている。

これの何が問題かというと、貧富の差がそのままストレートに公教育に反映されることだ。地区である以上、高級住宅が並ぶゲーテッド・コミュニティもあれば、住民の大半が薬物中毒者というとんでもないスラム街もある。しかしどれほど悲惨なスラム街であれ、スラム街はスラム街だけの予算で地域の教育を実施しなければならないのだ。

当然のことながらスラム街ではまともな予算が組めず、まともな教師もまともな教育設備も用意できない。合衆国の地域格差は日本の比ではなく、学区の平均所得が州平均の半分以下という地域もザラにあるわけで、そうした学区の教育レベルは「悲惨」としか言い表せないほどだ。どのくらい悲惨かというと、高校内の犯罪組織を調査するため連邦政府から覆面捜査官が送られるレベルと言えばおわかり頂けるだろう。

そうした学区で起こるのは教育崩壊だけではない。

それに加えて、格差の固定化が加速度的に進行する。

アメリカにおける不動産選びの最大のポイントは「築年数」でも「駅からの近さ」でもなく「学区の健全性」だ。自分の子供に優れた教育を施したいと思うのは親心として当然だろう。最低レベルの学区では義務教育の修了率が30%程度という場所すらあるわけで、そうした地域で子育てをしたくない親たちは貧困地区を避け「まともな」地区に住もうと躍起になる。

結果何が起こるか。貧しいスラムはますます貧しくなり、豊かな高級住宅街はますます豊かになっていく…という二極化の進行である。

スラムからはまともな教育だけでなくまともな産業(≒雇用)までもが逃げ出していき、住民は麻薬と犯罪の肥溜めの中でギャングを目指すかそれとも生活保護を受給して一生オピオイドに溺れるかという二択を突きつけられる。これは誇張でもなんでもなく、大卒の学歴を持たないアメリカ人男性のほとんどは26歳までに逮捕歴を持つという統計すらあるほどだ。

つまり「貧しくても努力次第で這い上がれる」環境が、根本的にアメリカの貧困地区には存在しないのだ。特に教育分野における格差はあまりにも巨大である。義務教育の時点で教育予算が貧困地区と富裕地区で数倍から10数倍も違うのだ。これで格差が出ない方がおかしいだろう。

翻ってみると、日本の公教育制度はアメリカと比べると比較にならないほど平等かつ先進的である。

まず地域格差がほとんどない。東京だろうが沖縄だろうが港区だろうが西成区だろうがかけられる教育予算はほぼ同等である。これは教育予算が「県」と「国」との折半で賄われているからであり、したがって少なくとも公教育においては地域格差は無視できる程度にしか存在しない。

結果として、日本の公教育ではアメリカでは決して起こらない奇跡も生じている。低所得地域が高所得地域に学力で勝つということが普通に起こるのだ。文科省の実施する「全国学力・学習状況調査」で長年トップの座を誇っているのは高所得県とは言い難い秋田県である。無論、私教育(塾や予備校)における格差は無視できないが、少なくともアメリカと比べれば圧倒的に平等で優れた教育システムを日本は有している。

また学区間における巨大な格差が存在しない日本では、極端な地域格差も未だ発生していない。富裕層も貧困層も中間層もみな同じ学区の小中学校に通い、友達や恋人になることがごく当たり前に発生している。

「階層が異なる人間が同じ学校で青春を送る」というのは、実のところ米国では決して起こり得ない現象なのだ。世に言うアメリカの「分断」とは必ずしもイデオロギー的なものではなく、こうした教育・地域レベルの分断として見るのがより実態に即しているだろう。


アファーマティブ・アクションの果たした歴史的役割

前項で「いかに米国の教育制度がゴミカスで格差を拡大・固定させているか」について書いたが、実のところこれでもまだひと昔前よりマシ、というのが驚異の国アメリカの実情である。

まず1950年代まで、合衆国では黒人が学校に通うのは違法だった。

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週に1-2回程度更新。主な執筆ジャンルはジェンダー、メンタルヘルス、異常者の生態、婚活、恋愛、オタクなど。

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