弱者は言葉を有さない
本稿は21日に発売された「生きてるだけで、疲労困憊」の書評である。著者はこのマガジンの購読者なら多くの方がご存じであろう発達障害ツイッタラーことrei氏だ。
本書はハッキリ言って、かなり異常な書物だ。
おそらく本書を読んで「これ私だ…」的に共感を抱く人はおそらく極少数だろう。筆者のrei氏は特別支援学校出身であり、家庭内でもネグレクトと言って遜色ない冷遇を受けており、氏とその周囲が受けた障碍者ゆえの受難も(ありふれているにも関わらず)一般にはほとんど知られていない。
いま世間は「発達障害ブーム」と言われるほどで、いわゆる「当事者本」も雨後の筍のようにポンポンと発売されている。そのような当事者本の中で、本書の立ち位置は極めて特異だ。
というのも、本来ならば語る言葉を持たない人間が、偶然の積み重ねによって例外的に内心を吐露したのが本書なのである。
だからこそ希少であり一読の価値があるのだが、その真価について理解できる人はそれほど多くないだろう。ゆえに大きなお世話であることは重々承知の上で、書評 兼 解説のようなものを書いてみよう。
おそらく今後しばらく、類似の書籍は現れないだろうと思う。
そういう本だ。
弱者は言葉を有さない
いわゆる「当事者本」を読んだことがある人は、みなさんの中にも多いだろう。自分は当事者ナラティブを編集する仕事に就いていたこともあって、おそらく地球上でトップ0.1%に入る程度には当事者ナラティブというものを多く読んでいる。
「当事者本」は一種の文学的な趣を持っていることが多い。その文学性や詩情によって、いわゆる「当事者」以外の読者を獲得することも少なくないのだが、本書「生きてるだけで、疲労困憊」の筆致にそのような詩趣は絶無と言って良い。
文体は簡潔かつ無機質だ。淡々と何があったかだけが綴られている。そして淡々と綴られているエピソードのひとつひとつが、悲惨としか言いようがない、極めて「キツい」ものなのだ。
言語発達遅滞によって文字通り「声」が出せなかったrei氏は、ほとんど完全に両親に無視されつつ育つ。食事を出し、学校に行かせる以外のことを両親はほとんどしない。幼児である氏を家に放置して、健常者の妹と両親の3人で頻繁に外出する始末である。氏を交えた家族写真は全く残っていない。
小学校で特別支援学級に進み同じような境遇の子供たちとつるむようになるが、そこでも安息は訪れない。健常者の子供たちにいじめられ、通学路では石を投げられ、支援級仲間のひとりは投石によって失明してしまう。
特別支援学級には親にネグレクトを受けている子供がうじゃうじゃと存在し、十分な食事を与えられずに栄養失調に陥る児童が続出する。そのため給食の奪い合いが発生し、骨と皮だけの餓鬼のような子供たちの間で死に物狂いの乱闘が起こる。
しかし彼らを助ける大人はどこにもいない。両親からは無視され、教師ですら見て見ぬふりを続け、トラブルが起きても健常者側の児童に味方する。そもそも言語発達遅滞や自閉傾向や吃音によって、彼らは文字通り「声を上げる」ことができないのだ。投石によって目に怪我をした男児ですら、角膜が混濁化し目が異常な状態になっているにも関わらず放置され、病院に行くことすらできず失明してしまった。
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このように要約を書くだけで胸が苦しくなってくるような内容なのだが、しかし本書の筆致は極めて平坦だ。淡々と、淡々と、まるで何も特別なことは起こらなかったとでも言うように、感情を交えず、無機質かつ平坦な文体でこれらの物事が記されていく。
本書における最も突出した異常性は、その文体の徹底した無機質さである。全くもって異常な事態が文中では起こっているのに、その出来事を記す著者の文体は何事もなかったかのように平坦なのだ。これは単に筆者の文学的資質にのみ依るのだろうか。もちろん否である。そのような結論に至るのは障碍というものを何も理解していない人間だろう。
文中にこのような一文がある。
(特別支援学級の中でも)「親に愛されている組」は感情表現が豊かでよく喋ったため、無表情かつ喋れない私は「住む世界が違う」と子供心に悟った
(中略)
感情表現が豊かであるかどうかは、そこにインセンティブがあるかにかかっていると思う。私やムシくんやケイくんは、感情を表現したところで親に何かしてもらえることがなかったため、小学校入学時にまるで感情がないかのように、無表情気味だったのだと考えている。
(引用:「生きてるだけで、疲労困憊」 P27)
弱者は言葉を有さない。
なぜなら言葉によって他者とつながることができず、さらに言葉を紡いだところで誰からも好意的に扱ってもらえないからこそ「弱者」なのだ。
弱者は語れない。
語らないのではなく、語れない。語ったところで何の得もないとそれまでの悲惨な人生を通して学習しているからだ。
rei氏の文体はあまりに平坦で、まるでどこか遠い国の報告書を読んでいるような気分に陥るが、「報告書のように」しか自分の人生を、感情を、内心を吐露できないのが、言葉に耳を傾けてもらえなかった人々の特性なのだ。文体こそがそれを物語る。
SNSで良く見られる光景だが、主観的に情念をこめて生きづらさをを主張する人間と、客観的にデータなどを交えて生きづらさを主張する人間は、しばしば深刻な対立関係に陥る。
なぜようなってしまうのだろう。これは彼/彼女らの「生きづらさ」の質が全く異なるからだと自分は思っている。
主観的に苦しさを訴えても誰も聞き入れてくれなかった人間は、論理的に、無機質に、データを交えて、つまり客観的に自論を主張する。なぜか。主観的に苦しさを訴えたところで、感情を吐露したところで、誰にも耳を傾けてもらえないからだ。だからこそ彼らは客観性に頼る。
つまり客観的に生きづらさを物語る人たちは、彼らが知的に卓越しているからではなく、主観的に苦しさを訴えても誰からも聞き入れられない弱者であるからこそ、そのように語る術を身に着けたのだ。論理とは弱者の武器なのである。
しかし客観性にすら頼れない人間がいて、それが幼少期のrei氏や、彼の周りにいた人たちだろう。彼らには教育が与えられていない。それどころか物理的に声を発することもできない。その結果として彼らは感情を表出する術を身に着けることをができず、社会の中で「透明な存在」になっていくのだ。
世界は醜い
さて、凄惨な生育歴から、障害者就労を経て社会適応するまでの諸々が書かれた本書なのだが、最後は以下のような言葉で締めくくられる。
ここで私が言えるのは「世界は醜いが多少マシにできなくもない」ということだけである。
やりがい、意義、感謝、道徳。そういった「正しさ」は、弱者を救うことはない。正しさで作られた世界の中で「救わなくてよい」と結論されたからこそ、弱者は弱者なのである。その意味で正しさは「現状維持」以上の役割を果たすことはない。
世界は醜く、持てる者はさらに富み、持たざる者は持つものをも失い、障害や疾患は完全解決が不可能な故に「障害」や「疾患」とラベリングされ、社会の中で不遇な者は社会の「正しさ」故に救われることはない。
(引用:「生きてるだけで、疲労困憊」 P179-181)
著者の子供時代は、世界に対する希望と絶望の反復だった。
「ここよりもよい世界があるのではないか」という外界への関心が、著者を特別支援学級から外の世界へ導いていく。
障碍者の世界ではなく、健常者の世界はもっと良い世界なのではないか。
瘦せこけた児童が学校給食を奪い合うような世界ではなく、愛とリソースに溢れた世界があるのではないか。
そのような希望を抱き著者は「外の世界」を目指していくのだが、しかしそこにあったのは特別支援学級と何も変わらない修羅の世界だった。
障碍者でなく健常者であっても、また溢れんばかりの富を持つ恵まれた者たちであっても、他者から奪い、富を顕示し、争い合い、罵り合う。その世界を見た著者と支援級の仲間たちは「世界は醜い」と結論付けた。
この本はそんな世界を醜いと感じる人々が、それでもなおこの世界で生きていくための本、なのだと思う。
世界が醜いことを受け入れ、障害を障害であると受け入れ、それでもなお世界にしがみつくならば、どのようにして生きるべきなのか。
もちろん普遍性のある方法はない。銀の弾丸はない。この本を読んでもあなたは高確率で生き伸びるための方法論など発見できないだろう。しかし世界を醜いと感じ、それでもなお生き続けている人間の姿を見ることはできる。
世界は醜く絶望的だが、人間はそれでも歩み続けることができるかもしれない。人間にはそれを選び取る意志が与えられている。
そんな言葉に何かを感じるなら、手に取ってみても良いだろう。
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ここから先は本書の「楽屋裏」の話を少ししていこうと思う。書評とは離れた、少々プライベートな内容も入るので有料とさせてもらおう。
なお本記事経由で増えたマガジン購読料は、全額をNPO法人 日本自閉症協会に寄付させて頂く予定だ。
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