「死に場所」を得られなかった男がセルフネグレクトに向かう
先日「限界独身中年男性のための『ていねいな暮らし』マニュアル」というnoteを執筆したところ、想定以上の反響を頂きたいへん驚いた。
「こんなクソ以下の生活してるのお前の周囲だけだろ」と罵倒されることを覚悟しつつ書いたのだが、どうやら想像以上にこの世は限界中年男性で溢れているらしい。世も末である。
限界独身中年男性のみなさんからのお便りを読みながら「なぜ限界中年男性はセルフネグレクトに陥ってしまうのか?」ということについて改めて考えてしまった。独身中年男性特有の、だんだんと自分が「希薄化」していくような感覚。あの源泉は一体どこにあるのだろう。
医療サイドの言説は「身体機能の低下」や「社会的孤立」や「貧困」にセルフネグレクトの原因を求めることが多い。しかしそれらはセルフネグレクトの「原因」というよりは「結果」ではないだろうか。「なぜ独身中年男性はセルフネグレクトに陥るのか?」という問いの答えにはなっていない。
なぜ限界中年男性はセルフネグレクトに陥るのか。
あくまで筆者の私論ではあるが、ひとつの仮説がある。
それは男性がセルフネグレクトに向かうのは「死に場所」を得られていないからではないか、というものだ。
つまり死ぬことができないからこそ、死んだように生きる羽目になってしまうのだ。それこそが男性のセルフネグレクトの本質ではないか。
本稿では限界独身中年男性のセルフネグレクトの背景にある「死所の不在」について綴っていく。
生命が腐る条件
「死に場所」などと言われると、それは「セルフネグレクト」と何が違うのかと思われるかもしれない。確かになんとなく自殺願望を連想させるし、直感的に「自分を大切にする」ことと遠く隔たっているようにも思う。
しかしどうやら故事を引くと、「死に場所」を得た男はむしろ自分の健康に気を遣うようになるらしい。
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