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弱者男性を差別することは女性にとって合理的

多くの観測から裏付けられるように、女は弱者を愛さない。

低収入男性の生涯未婚率は平均を遥かに上回るし、精神障害や発達障害を持つ男性の未婚率は際立って高い。「ガラスの地下室」で不可視化される男性困窮者へ関心を示す女性はごく僅かであり、「負の性欲」というワードで語られるように社会的劣位の男性を排除したがる生得的な本能を女性は持っているようにも見える。

女は弱者を愛さない。弱者を嫌悪し、特に男性弱者を排除したがる。これはほぼ疑いようのない女性全体の傾向だろう。しかし「傾向」である以上、物事には例外というものが存在する。

ごく稀に「弱者男性にも分け隔てなく優しい女性」というのも出現するのだ。もちろん背景には複雑な承認欲求やら同性集団からの孤立やらが絡まっていたりもするのだが、偽善であれ善は善である。

彼女たちは一種の母性愛のようなものを弱者に対して向けたがる。オタクならば宮崎駿が描いたナウシカを連想すれば良い。醜悪な存在をあえて偏愛し、時に我が子に対するような愛情を見せ、弱者の境遇に対して心からの憐憫を砕く。もちろんそうした変わり者は女社会から排除されるが、その排除がまた彼女らの弱者への愛情を高めていく。オタクの描く理想像のような女性。確かに、こうした女性はごく少数ながらも実在する。

と言っても、まだ見ぬ聖母に歓喜してはならない。こうしたメサコン女子たちには寿命があるのだ。彼女たちが聖母を貫けるのは遅くとも20代半ばまでで、たいていは年齢を重ねるごと弱者男性を差別し遠ざけることを学んでいく。加齢と共に「ごく普通の女の子」差別主義者に成長していくのだ。

個人的に、宮崎駿がマザコンとロリコンを兼任しているのは「少女の成長」という現象について高い解像度を得ているからではないかと思っている。女という生き物は一般的な常識とは異なり、幼ければ幼いほど不特定多数への母性を抱く。少女性を失い「女」になったあとの女性は、母にはなれるが「聖母」にはなれない。天空の城ラピュタに登場するドーラのように、子を守りつつも戦う生活者としての側面を持たざるを得なくなるのだ。

弱者男性を包摂する優しい「少女」は、なぜ弱者男性を当然のごとく排除する「女」に成長してしまうのだろう。

ひと言で言えば、

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週に1-2回程度更新。主な執筆ジャンルはジェンダー、メンタルヘルス、異常者の生態、婚活、恋愛、オタクなど。

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