見出し画像

毒親としてのマキマさんと、父性不在時代のエディプス・コンプレックス

※ネタバレ全開です。

今更ながら「チェンソーマン」を読みました。作者の「ヤバい女が好き!」という性癖が駄々洩れで、個人的に大変面白く読ませて頂きました。

本作のヒロインと言えば、やはりマキマさんでしょう。支配の悪魔であり、デンジにとってのファム・ファタル(運命の女)であり、しかし疑似的な母親であり、故に近親相姦的な欲望の対象でもある。

マキマさんが「母親」をモチーフに創られたキャラクターであることは個人的には自明なように思えます。条件付きの愛情、ある種の包容力、苛烈な女性性、支配的パーソナリティ、超越性。マキマさんの有するこれらの属性は、ある種の人生経験を積んだ人間からはやはり「母親」としか読み取れないところがあります。

本作は「母」たるマキマさんの「支配」に、主人公であり「子」であるデンジくんがファルス(男根)的記号であるチェンソーを用いて抗うというところにひとりのラインがあるのですが、その結末が個人的になんとも意外であったというお話をここではさせて頂こうと思います。


母親を恋人にするエンド

「チェンソーマン」のラストは、子であるデンジくんが母であるマキマさんを、その肉を喰らう(食人)ことによって倒すという筋を迎えます。そう、近親相姦的欲望が見事に果たされてしまうのです。

「マキマさんと俺…一つになりゃいいんだ」

「攻撃じゃない、愛ですよ」

とデンジが言っているように、この食人は「愛によって一つになる」行為として描かれますから、性交のニュアンスを多分に含んだ食人と言わざるを得ません。

マキマさんを「愛によってひとつになる」ことで倒したデンジは、その後少女化し記憶を失ったマキマ(ナユタ)と出会います。そしてそのナユタを抱きしめ(作中で語られるには)「対等な」関係を築くことで物語を終えます。

どう解釈するかは個々人の自由ですが、自分はこれを「母親を恋人にするエンド」として捉えました。「愛によって母親と繋がり、それによって母親を少女に戻し、【対等な】関係になる」わけですから、ここで描かれているのは母親からの支配の超克というよりは、さらに深い母親との男女的なつながりなんですよね。

なんというか、とんでもないものを見せられたなというのが最初の印象でした。マキマ=母親という図式は物語前半までに薄っすら気付いていたので、当然それを乗り越える親殺しの物語が展開されるのだろうと思い込んでいたのですが、まさか母親を少女に戻して同衾するエンドを迎えるとは。本当に予測の範疇外でした。


従来型のエディプス・コンプレックスとの違い

「母親と交わる」という筋書きから、フロイトの提唱したエディプス・コンプレックスという単語を連想した方は多いと思います。しかし本作は、従来的なエディプス・コンプレックスのフレームには明らかに当てはまりません。

フロイト的なエディプス・コンプレックスの前提には、支配的で強力な父親に対する反発と同一化願望があります。父のような強い男になりたい。母を独占する父親が許せない。父を超え、父と同一化するための手段として母親を犯すわけであって、重要なのはむしろ母親よりも父親との関係です。

しかし本作で描かれているのは、支配的な母親による子への条件付きの愛情と、それに必死で応えようとする子供の奮闘です。ここに父親はほとんど登場しません。一応、デンジには父殺しの過去があるわけですが、父親への反発や父親との同一化願望を一切デンジは持ちません。

この構造こそが、「チェンソーマン」がまさに現代的な作品であると理由だと筆者は考えます。「父性の不在と母性の過剰」こそが、現代の著しい特徴であると自分は考えているからです。


「男」を求める母親たち

現代において、男性が「父親」という役割を果たすことは極めて困難です。「家父長」としての父性には導き手・裁き手としての側面があるわけですが、現代において男性がそのような役割を果たすことは社会的にほとんど許容されていません。

父性が否定される一方で、しかし母性的役割(すなわち愛すること、守ること)は無条件に良いものとされています。「父親」の役割を果たすことが困難になる一方で、「母親」であることは容易なのが今という時代です。

この「父性の否定と母性の肯定」という社会的風潮が、現代の家庭から父性を排除している…というのはかなり一般的な現代理解でしょう。

「強い父親」が不可能化した一方で、「強い母親」はむしろ当然のものになっている。そして過剰な母性は(まさにマキマ的な)愛情による支配を通して共依存的な母子密着を生み、家庭を機能不全に陥らせ、いわゆる「ひきこもり」のような子の社会不適応を生じさせる。個人的にも、とても見慣れた構造です。

過剰な母性によって支配された家庭。しかしそのような家庭で支配者と振舞うことで、母親たちは幸福になるのでしょうか?もちろん、答えは否です。

家庭の独裁者として君臨した母親は、ほとんど例外なく強烈な不安を抱えます。なぜならプラトンが思索したように、responsibilityの主体である支配者にはある種の倫理的哲学が必要となるわけですが、女性的な情愛によってのみ君臨する母親たちには「世界はこうあるべきだ」とする倫理が根本から欠けているからです。

倫理的規範なき支配。その根源的な不安に駆られた母親たちが何に手を出すかというと、やはりと言うべきか、「男」なんですよね…。

母子密着の結果として生じがちな「ひきこもり」問題も、母親たちが最後に縋るのは戸塚ヨットスクールや自立支援施設のような暴力的な「父性」です。

父性の否定によって暴走した母性が、しかし最終的には父性の渇望にたどり着く。なんとも皮肉な話ですが、これは現代における機能不全家庭の最もありふれた形のひとでしょう。


「男」を求めるマキマさん

チェンソーマンに話を戻しましょう。「自分よりも程度が低い」他者を絶対的に支配しながら、それでもチェンソーマンという絶対的な「ヒーロー」を求めるマキマさん。そんな彼女に自分は「『男』を求める支配的な母親」たちと極めて似通ったものを感じました。

作中で語られるマキマさんの欲望は混乱を極めています。

「チェンソーマンを支配してより良い世界を作りたい」
「チェンソーマンに支配されたい」
「チェンソーマンと対等な関係を築きたい」

言ってることが完全にバラバラです。しかしこの欲望の混乱は、一種の補助線を引くとスッキリ理解できます。

「自分より優れた男に(対等という名目の元)支配されたい」

チェンソーマンがもし自分よりも弱いなら支配したい。チェンソーマンがもし自分よりも優れているなら支配されたい。でもあくまで「対等」ということにしたい。

最終話において現れるデンジとナユタ(少女化したマキマ)の関係は明らかに「対等」ではない庇護と被庇護の関係に見えますが、作中では「対等」と称されます。しかしそれこそがマキマ(支配的な母親)の欲望なんですよね。優れた男に(対等という名目の元)支配されたいというのが…。


息子に「男」を求める母親たち

支配的な母親は情愛によって家庭を支配し、しかし支配することでは満足を得られず不安を覚え、男性性を希求するようになる。

しかしまだ、その男性性の希求が「外」に向かうなら状況はマシだと言えます。問題はそれが「内」に向かうときです。マキマのように、「男」を求める先が息子であったなら…。

ひきこもり家庭に限らず、母子密着には以下のような特徴が見られます。

1、母親が子供に感情的に依存している。
2、子供が異性関係を持つのを邪魔する。
3、過去に生活に干渉するなど、子供が自立できないように育てる。
4、母親はふつう、社会的に孤立しており、夫との感情的つながりがない。

わたしはこうした母子密着を「心理的な近親姦」と考えています。性行為はないけれども、母親は子供を自分の恋人のように扱います。子供が男ならばマザコン、女ならば一卵性姉妹になります。こうした子供が成人すると、親密な異性関係を作るのが難しく、結局は母親といっしょに暮らすようになります。

(引用:ひきこもりと共依存と母子密着 関東自立就労支援センター

チェンソーマンで描かれているマキマとデンジの関係は、まさにこの心理的な近親相姦であると言えます。

マキマさんはデンジくんが異性と関係を持とうとすると常に邪魔をしますよね。姫野とキスをしたあとはチュッパチャプスによって上書きし、レゼもパワーもいい感じになるとすぐに殺されてしまう。

そしてデンジくんの自立を常に妨げ、自分に依存させ、しかし自分を打ち負かしてくれることを望む。「男」としての役割を求める。

しかし最終話でデンジくんが気付いたように、マキマさんは本質的にデンジくんという個人に一切興味がありません。デンジくんの中のチェンソーマンというファルス(男根)性にのみ関心がある。

実のところ、このような母子関係はメンタルヘルス業界では頻繁に観測される現象です。疑似恋愛的な支配欲と被支配欲を息子に向ける母親。それは筆者の身に起こったことでもありますが、幾度となく目のあたりにした現代における母子関係の典型のひとつでもあります。

さて、母親から「男」を求められた息子たちはどうなるのか。

恐ろしいことに、デンジくんのように「男」であることを引き受けてしまうんですよね。お母さんは可哀想なんだ。お母さんは孤独なひとなんだ。お母さんは俺は守らないといけないんだ。俺はお母さんを愛してるんだ。そういう気持ちを母親に向けてしまう。ここに典型的な共依存が完成します。


「支配の悪魔」の完全勝利

というわけで、チェンソーマンの個人的な感想は

「親殺し」の物語ではなく

「愛」の物語でもなく

「支配の悪魔」がその「支配」を完全に達成したお話

という風に、読ませて頂きました。

いやぁ、難しいんですよね、親殺し。特に母親殺しは。

合衆国大統領によって男性的・システマティックに使役される「銃の悪魔」を、マキマという女性的・母性的な「支配の悪魔」が圧倒するという世界感は、母性の暴走という現代社会の一側面を上手く切り取っていると思います。

チェンソーマンはこれで完結ではなく「第一部・完」です。支配の悪魔に完全に支配されたデンジくんは、これからどのような道を歩むのか…。

個人的に、「母親殺し」は「愛することをやめる」ことでしか達成できないと思っているのですが、内なる男根に「沢山抱きしめてあげて」と請われているデンジくんがそれを成し遂げられるのか、かなり難しい感じがするんですよね…。

先の展開が全く読めない。

どうなるんだチェンソーマン。


【関連記事】

ここから先は

0字
週に1-2回程度更新。主な執筆ジャンルはジェンダー、メンタルヘルス、異常者の生態、婚活、恋愛、オタクなど。

狂人note

¥1,000 / 月

月額購読マガジンです。コラムや評論が週1-2本更新されます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?