子殺しママに優しい日本社会
また、凄惨な虐待殺人が起きた。被害者は3名。犯人は実の母親だ。
もちろん殺人事件そのものが発生することは1億超の人口を抱える国家である以上避けられない。様々な理由からどこかで「ライン」を踏み越えてしまう人間は常に一定数発生する。社会から犯罪を一掃することはできない。もちろんそれはわかり切っている。
筆者がやりきれないと感じるのは、虐待殺人が生じたあとに生じる子殺しママへの無数の擁護と共感だ。報道機関でさえ「ワンオペ育児か」というフレーズで犯人に共感を示している。「ワンオペ育児」「母親への支援不足」「育児の現実」…。一見やさしげな言葉に包まれたこれらのワードは、本質的に子殺しの擁護と連続殺人犯への紐帯を表すものに他ならない。
もちろん「殺人という罪を犯すに至る背景に酌量の余地があったのではないか」というロジックは理解できる。身体的、経済的、精神的な苦境が犯人を望まぬ犯行に追い立てたのではないか?それは素朴で自然なヒューマニズムの発露でもある。
しかし筆者の心を重くするのは、そのような理解と共感が決して万人には与えられていないという純然たる事実だ。
例えば昨年8月に生じた小田急線内での通り魔事件を思い出してほしい。「フェミサイド」という奇妙なレッテルを貼られたこの事件は、その背景に社会的困窮があるのではないか?という素朴な疑問さえ権力者たちの厳しい圧力によって封じられた。
共産党の山下芳生議員による
絶対に許されない犯行だが、同趣旨の言葉を同様の事件の容疑者から聞いた。いずれも容疑者は派遣労働者だった。一定の人間をモノのように使い捨てる社会について考える
というツイートは、「ジェンダーの視点が欠落している」「ジェンダーに基づく差別意識がある」「加害者を擁護するかのような発信をいますべきではない」という厳しい糾弾によって迎えられたのだ。
このような事実を概観すると、人間の命には価値の軽重があり、女性の命は重く、児童や成人男性の命は軽いのだろうと思わされる。
殺人という同じ罪を犯しても、権力者だけはその背景を斟酌され、そうでない人間はただ糾弾される。そうした権力勾配の存在に気付いてしまうと、「虐待殺人の背景にも見るべき社会問題があったのではないか」という意見も単なる権力への阿諛追従にしか見えなくなってしまう。そうした輩は十中八九、通り魔のような社会的地位の低い犯罪者には理解と共感を示そうとはしないからだ。
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ところで、日本における虐待殺人の量刑は極めて軽い傾向にある。似通った事例を英語圏と日本とで比較すると一目瞭然だ。量刑もさることながら、児童虐待に対する社会的態度が日本と海外で根本から違っていることがわかる。
たとえば日本における嬰児殺人の何割に執行猶予付き判決が下されているか、みなさんご存じだろうか。刑法学者の守山正教授によれば、
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