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「宗教」としてのLGBT運動
ここ2-3年ほどで、「日本のLGBT理解は遅れている」という意見を頻繫に目にするようになった。
確かに西洋圏のLGBTムーブメントを基準とするなら、日本国内のLGBT運動は比較にならないほど「遅れて」いるだろう。同性婚制度についても日本は未整備であり、トランスジェンダーについても多くの制度的な「遅れ」がある。特にSRS(性別変更手術)を経なければ戸籍変更を行えない法制度については非難の声が大きい。
この日本の「後進性」について、海外メディアはたびたび非難の声を発している。つい先日もワシントンポストが「主要7カ国(G7)の中で同性婚を認めていない唯一の国」として日本を名指しで弾劾していたが、記事の論調は一貫して「進んだ西洋と比べてアジアの未開国はLGBTへの理解が遅れている」というものだった。
しかし日本のLGBT理解は本当に「遅れている」のだろうか。
答えははっきりとNOである。
西洋社会の文化的背景、また1960年代からはじまる「性の革命」とLGBTムーブメントについての基礎的な知識を持っていれば、「LGBT運動」なるものが西洋社会の特殊な文化的背景に根差した宗教運動に過ぎないことが理解できるだろう。
日本はセクシャルマイノリティを社会的に包摂することに成功した世界でも稀有な文化圏であり、「LGBT運動」なる宗教的ムーブメントが発生する余地がそもそも存在しないのだ。
本稿は西洋のLGBT運動の歴史を辿りつつ、日本と西洋の「性」文化の差異について綴っていく。
「愛の共同体」としてのキリスト教社会
結婚式などで頻繫に引用される、有名な聖書の一節がある。
少々長いが引用しよう。
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
(中略)
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
多くの日本人にとって、少々奇妙に感じられる内容かもしれない。特に「山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ無に等しい」という一句は、日本人の宗教イメージの正反対に位置するものだろう。
日本人は宗教というものを「絶対者に対する盲目的な帰依」のようにイメージしたがるきらいがある。つまり盲信や献身を宗教性の中心に置きたがるわけだが、少なくともこれはキリスト教の伝統とは大きな隔たりがある。キリスト教信仰において最も重要なのは盲信でも献身でも慈悲でもない。徳目の最上位に位置するのは「愛」である。
この場合の「愛」とは、厳密に言えば見返りを求めない無償の愛を指すが、夫婦愛や隣人愛をも含む概念と考えて大過ない。また愛とは観念ではなく具体的な行動として表すべきものであり、良き夫婦、良き隣人、良き親子として「愛」に溢れた生活を営むことが信仰生活の理想とされてきた。
サラリと説明しているが、これは極めて特殊な価値観である。つまりキリスト教社会において、「愛」とは「信仰」の問題だったのだ。夫婦が愛し合い、隣人同士が助け合い、親と子が慈しみ合う。これらは私生活における幸福という枠を超えた、形而上的な価値を持っていたのである。
こうした「愛の共同体」たるキリスト教社会において、伝統的に排斥されてきたのが同性愛者だ。キリスト教社会における「愛」とは十字架において磔刑を受けたイエス・キリストが人類に対して示した無償の愛を理想とするが、それは恋愛感情やセックスを介した性愛(エロース)とは全く別のものとされていた。そしてキリスト教圏において、同性愛者のパートナーシップは性愛(エロース)に基づく「偽物の愛」と見做されてきたのだ。
キリスト教圏におけるほとんどの地域で、同性愛が犯罪として刑罰の対象となっていた理由はここに求めるべきだろう。「愛の共同体」たるキリスト教社会は、「まがい物の愛」である同性愛を許容することができなかったのだ。同性愛の犯罪化はヨーロッパのほとんどでは20世紀に至るまで、合衆国に至ってはなんと2003年まで続いている。
そして、だからこそ、メインカルチャーに対抗するカウンターカルチャーも「愛」を問題提起の中心に置かざるを得なかった。1960年代以降の「性の革命」は、このような文脈のもと幕を開ける。
「宗教改革」としての性革命
1960年代、「性の革命」と呼ばれるカウンターカルチャーが爆発的に流行した。ヒッピー文化、自由恋愛、フリーセックス、ミニスカート、ゲイリブ、ウーマンリブ…。あらゆる多種多様なセクシャリティの解放が同時多発的に生じたこの時代、彼らの主たる問題意識は「真実の愛とはどのようなものか?」というものだった。
フリーセックスやミニスカートに代表される性規範からの解放は、単なる動物的欲望の肯定ではない。それらは「真実の愛」を獲得するためのプロセスであり、それまで「偽りの愛」とされてきた性愛(エロース)に中に本当の愛を求めようとする宗教運動だったわけだ。
ゲイリブやウーマンリブも文脈は同様である。ウーマンリブ(フェミニズム)は女性を男性並みに向上させることによって従属的な男女関係とは違う「より高次な愛」を実現させようとするウィルストンクラフトの思想から始まったし、ゲイリブもまた同性愛の中に異性愛と同等の(もしくはより高次の)「愛」が存在するという思想に根差した運動だった。
つまりLGBT運動を含む「性の革命」は、
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