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あの頃は、誰もがエヴァに狂ってた

始めに自分が「エヴァ」に触れたのはおそらく1998年ごろだ。

その時の自分は9歳で、まだ精通もしていなかった。

ある日、隣の家の引っ越しを手伝いに行ったとき、その家の子から「手伝ってくれてありがとう。好きな漫画をひとつあげる」と言われ、なんとなく目に留まった「新世紀エヴァンゲリオン」の4冊を選んだのだ。そのときはまだ4巻までしか出てこなかった。

両親はあまり本や漫画を買い与えるタイプの親ではなかったので、自分はいつも小学校の図書館にある本ばかり読んでいた。だから漫画といえば手塚治虫の「ブッダ」と「はだしのゲン」しかない。そういう環境で読む「新世紀エヴァンゲリオン」は鮮烈で、劇的だった。一気にハマった。

その半年後くらいに、「この漫画は元々はアニメらしい」、ということを知った。祖母からもらったお年玉貯金を使ってビデオをレンタルし、数日間で一気呵成に全話を観た。面白かった。そして意味がわからなかった。

漫画版を貸してくれた友人に「あれってどういうこと?」と聞くも、彼もわからないという。何人かの友人にビデオを見せ「これってどういうことだと思う?」と聞いても、彼らの答えも曖昧かつバラバラだった。なんだそりゃ。そもそもオチがわかりにくい作品に触れることすら始めてで、小学生の頃に触れた「エヴァ」は「よくわからないけど面白かった作品」というフォルダに入れられ、しばらく忘れられた。

確実に「エヴァ」のせいでオタクになった自分は、中学に上がると「機動戦士ガンダム」にハマり、中2くらいからは美少女ゲームにハマった。最初にプレイしたのは友人から「いいからやってみろ」と言われ押し貸されたCLOCK UPの「けがれた英雄」だ。

この作品は成人した今見てもかなりキツい凌辱ゲーなのだが、純情な13歳だった自分はこの作品で完全に脳が破壊された。それまでの自分はヤンジャンの水着グラビアを直視できないくらい純情な中学生だったのだが…。世の中には本当にエロいものが溢れているのだと知って驚いた。

それからしばらくは美少女ゲームしかやらなかった。「君が望む永遠」で単にエロいだけじゃないエロゲーがあると知り、それからはそういうものを中心にプレイした。

「月姫」「グリーングリーン」「BALDR FORCE」「世界ノ全テ」「それは舞い散る桜のように」「CROSS†CHANNEL」「永遠のアセリア」「巣作りドラゴン」「ウィザーズクライマー」「Fate/stay night」「戦国ランス」「鬼哭街」「沙耶の歌」「車輪の国」「群青の空を超えて」「マブラヴ オルタネイティヴ」「素晴らしき日々」…

特に強烈に記憶に残ってるタイトルはこの辺りだろうか。柔道部とパソコン部の悪友で結託し、秋葉原の中古ショップを回り、ワリカンでエロゲを購入する。2001年から2006年くらいにかけてのエロゲーはオタク文化の中心地で、その時期に12歳から18歳として成長していた自分はひたすらにエロゲーばかりやっていた。アニメはほとんど見なかった。自室にテレビがなかったし、リビングに鎮座する親との関係は良くなかった。

そして2006年、自分は高校を中退して精神入院に入院した。17歳だった。

中学2年で父が家を捨て出て行ってから加速度的に家庭環境が悪くなっていき、母の狂乱は度が増していく一方だった。自分はゆっくりと病んでいき、高校生になってからは1日に16時間ほどずっと眠るような生活が続いていた。その必然的な到達点として、精神科入院病棟という場所に数か月ほど送られることになった。

エヴァとの再会は、その場所で起こった。

病棟のテレビに、多くの患者が釘付けになっていた。そこでは入院患者の女子が持ち込んだ「新世紀エヴァンゲリオン」のDVDが再生されていた。画面を見る少年少女たちの目は真剣そのものだった。誰も画面を見ながら雑談などしない。

自分が入院していた病院は児童精神科の専門病院で、入院患者は子供たちばかりだった。自分は思春期病棟というところに入っていたので周りは12~18歳の病んだ子供たちだけ。そんな彼ら彼女たちは、真剣に、本当に真剣にエヴァを観ていた。自分もまたその輪の中に加わった。

印象的な出来事があった

第24話。渚カヲルが初号機に握りつぶされるシーン。

40秒以上続く静止画と空白のシーン。おそらく脳がまともかつエヴァに興味が薄い人なら、10秒くらいでビデオデッキの故障を疑うだろう。

しかし病棟では、誰もが静かに、そして真剣に、画面に見入りつつ成り行きを見守っていた。碇シンジと渚カヲルはどのような結末を迎えるのか。それをひたすら、ずっとずっと見守っていた。40秒後にそれは起こった。誰も声ひとつ洩らさなかった。

そんな病んだ少年少女の真剣な眼差しに同調して、自分もまたエヴァンゲリオンとは何だったのだろうという問いに向き合うハメになってしまった。

退院してから何度もテレビシリーズと劇場版を観なおして、これはコミュニケーションの話をしているのかなと自分なりにおぼろげな答えを見出せるようになった。まだ言語化は難しかったが、いつかしっかりと自分の中で文章として、テキストとして形にしてみたいものだ…などと思った。

20歳になった。当時の自分は英語を多少熱心に勉強していて、原著で読みたいと思った本をなんとか読めるようになろうと四苦八苦していた。

そんな自分を見て、「ものすごく語学ができる先輩がいるから紹介するよ」と友人が言ってくれた。「でも、もの凄く気難しい人だから、相性が良いかはわからない」とも言っていた。怖いもの見たさも相まって、とりあえず会ってみることになった。

友人に引き合わされたY先輩は、抜群に頭がよく、しかし見るからに気難しい人だった。東京大学の哲学科で近世のある哲学者の研究をしていて、「馬鹿や低能とは一秒だって会話したくない」というオーラが全身から溢れていた。

彼に会うと、開口一番こう聞かれた。

「最初に聞くけど、最後に読んだ本は何?」

最初のテストだった。正直に答えた。

「ハンターハンターの最新刊」

どっとみなが笑い、空気が和んだ。先輩も苦笑しながら「ハンターハンターじゃ仕方ねえや…」と言ってくれた。

「じゃあ次に聞くけど、エヴァが好きなんだよな。ラストシーンについて、お前の解釈を言ってみて」

超難問が来た。たどたどしく答えた。

「シンジもアスカも、補完を拒絶した。そして海岸で、シンジはアスカとつながろうとした。けどうまくいかなかった」

先輩は応えた。

「ふ~ん。アスカが他者ってことくらいはわかってるのか」

どうやら合格証を貰えたようだった。

先輩のトレーニングは超が付くほど厳しかった。

英語学習のテキストはバートランド・ラッセルの「The Problems of Philosophy」で、単語や文法が難しい上に、そもそも書いてある内容が死ぬほど難しかった。

冒頭の一文からしてこちらを殺しに来ている。

Is there any knowledge in the world which is so certain that no reasonable man could doubt it?

「あまりにも確かであるため、理性ある人なら疑いえない、そんな知識はこの世界にあるだろうか?」

そう訳すが、こんな文章日本語で読んだって理解するのは難しい。それに乏しい英語力で食らいつくのだ。脳みそが張り裂けそうになった。

しかも先輩は昭和か?と思うほどスパルタな教育方法を選ぶので、英文法の解釈を間違えたり、哲学の解釈を間違えたりすると罵声が飛んでくる。コワイ。必死に頭を振り絞ってテキストに食らいつくしかない。

先輩は昭和の鬼コーチのように厳しい反面、昭和の鬼コーチのように面倒見が良い先輩でもあった。毎日のように何時間も、自分の学習に付き合ってくれるのである(無論、先輩も自分の勉強をしてるが)。

休憩時間は先輩のエヴァ語りが始まる。内容は半分くらい理解できないが、聞いているだけで楽しかった。自分もエヴァの話をした。他の話もした。沢山。沢山。

そんな時間を2年ほど過ごした。

自分はとあるWEBメディアの編集者として働くことになり、先輩はアカデミアを見限って国公立医学部に再入学することになった。お互いそれぞれの道に進むときが来たのだ。

そうして別れた。当時のことを思い出すと、エヴァについて真剣に語っていた先輩の顔をなんとなく思い出してしまう。

新劇場版については、正直あまり真剣に観ていなかった。

新しいエヴァを作ろうとしてるんだなぁ…くらいの、ちょっと冷めた目で見ていたというのが正しかったと思う。「破」のラストでスーパーロボットみたいな展開になったときは感動も失望もせず「オイオイ」と苦笑するくらいの余裕があった。

ま、それはそれで良いんじゃないの。ガンダムの「THE ORIGIN」だって原作のエッセンス皆無の出涸らしだけど、喜ぶひとは喜んでるわけで。新しい、陳腐なエヴァを作るのも、それはそれでビジネスなんだから良いんじゃないの。そのくらいの温度で見ていた。

流れが変わったのは2012年。「エヴァQ」を観たときだと思う。

エヴァQはっきり言って、完膚なきまでに褒めるところがない駄作だったと思う。それは庵野秀明自身が「シンエヴァ」で暗に認めていることだし、震災によって心のバランスを失った監督が荒唐無稽な関係妄想を無理やり作品化したとしか今でも思えない。

にも関わらず、公開当初ネット上の評価はおおむね好意的で、「この意味のわからなさこそエヴァだ!」的な感想までちらほらと散見された。

しかし自分には、旧エヴァの「意味のわからなさ」とエヴァQの「意味のわからなさ」は全く別のものに思えた。前者は難解さの中にも作品としての核が確かにあったが、後者は何もない空虚をわざと難解にして粉飾しているだけに思えた。どうしようもない駄作だったし、内容の無さをセルフパロディによって粉飾するやり方には怒りを覚えた。

そんな感情を何処かに吐き出したくて、エヴァQをdisるためにブログを開設したところ、それがいわゆる「バズ」を引き起こしてしまった。

はてなブックマークのホットエントリーに載り、一夜にして3万PVほどの閲覧数を稼いだその記事のせいで、「自分の感情や思想をテキストとして世界でぶつけると誰かが読む」ということを学習してしまった。自分がブロガーとしてWEBに長文を書くようになってしまった契機は間違いなくエヴァQである。

こうして思い出を反芻すると、自分の人生の節目節目にエヴァがあったことに気づく。オタクになったのもエヴァのせいだし、気難しやの哲学徒に語学を叩きこまれることになったのもエヴァのせいだ。ブログやnoteでテキストを書くようになったしまったのもエヴァのせいだ。本当に、人生のあちこちにエヴァがあった。

おそらくそれは、エヴァという作品が持っていた力なのだろう。90年代からゼロ年代にかけて、ある種の若者たちは本当に真剣にエヴァを観ていた。病んだ少年少女たちにとっての、何か特別なものがそこにあったのだ。

当たり前だが、そんな元・少年少女たちの中で「エヴァに囚われていた」人間などひとりもいない。どんなに衝撃的な作品であれファンはその作品を少しずつ消化していくものだ。何年もグッズを買い続けるようなコアなファンでさえ作品との関係は少しずつ変化していく。エヴァに囚われていたのは現在進行形でその作品をリメイクしていた作り手だけだろう。

しかし淡い期待はあった。かつて衝撃を与えてくれた作品のリメイクがどんな新しい物語を紡いでくれるのかと。99%無理だろうと努めて冷静を装いながら、1%の期待はあったのだ。やはり無理なものは無理だったわけだが。

精神科入院病棟で「新世紀エヴァンゲリオン」を真剣に鑑賞していた病んだ少年少女を、エヴァのラストシーンの解釈を知的程度のテストとして出題した先輩を思い出す。

新劇場版はそういうファンを築かないだろう。作品の放映が終わって10年経った後も、真剣にその作品を鑑賞し、作品を楽しみ、語り続け、そこから何か豊かなものをくみ取ろうとするファン。新劇場版は、そうした人々を生み出す作品ではなかった、と思う。

「さよなら、エヴァンゲリオン」は自分の言うべき台詞ではない。あの台詞を言う資格があるのは、エヴァにずっと囚われ続けた、25年間エヴァを作り続ける羽目になったクリエイター、庵野秀明ただ1人だけだ。

だから、お疲れ様、とだけ言っておこう。

お疲れ様、庵野秀明。

そしてひとつの時代が終わったことを、諦観と共に受け入れたいと思う。

【関連記事】
・庵野秀明はもうエヴァンゲリオンを創れない
・「キモチワルイ」 シン・エヴァンゲリオン感想・考察

以下では購読者に向けに少しだけ、「エヴァQ」の私的解釈などを書かせてもらおうと思う。エヴァQとはどういう作品だったのか。それは3.11という震災が庵野秀明にもたらしたある関係妄想と、それを「祓う」ための呪術的儀式である。

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