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トラウマから回復するとはどういうことか

これはちゃんと答えた方が良いなと感じるマシュマロがあったので取り上げます。性暴力被害の過去を持つ女性からの「性被害からの完全な回復は可能なのか?」という相談です。

まず大前提として、あなたがいま経験している感覚過敏やめまいなどの症状の原因がどこにあるのかはこの相談だけでは断定できません。メンタルではなく内臓や神経の疾患があるかもしれないし、あなたも気付いていない心的な原因があるのかもしれない。それはこうしたネット越しの相談では絶対にわからない、直接診断した専門職にしか答えることが許されない問いです。

ただし、「性被害からの完全な回復は可能なのか」という問いについてひとつの考え方を提示することはできると思います。これは「トラウマからの回復は可能なのか」と一般化しても良いでしょう。自分のマシュマロには「こういう逆境体験があるのですがどうやって生きていけば良いのでしょうか」系の相談がよく来るのですが、そうした問い全般に対するひとつのアンサーとして今日の記事は書いていこうと思います。

あなたの問いに直接的に答えるものではありませんし、医学的なアドバイスでも勿論ありませんが、「心の傷のせいでうまく人生を生きれていないかもしれない」と考えている方に向けて、あくまで自分の個人的な考えをお伝えしてみようと思います。


心は目に見えないし、心の治療に正解はない

まず最初に極めてラディカルな、ほとんど「ネタバレ」とも言えるメンタルヘルスのぶっちゃけ話についてお伝えしておきましょう。それは心は目に見えないし、心の治療に正解はない、という当事者からすればあまりにあまりな現実についてです。

当たり前の話ですが、心は目に見えません。心臓や膵臓や骨や皮膚や肛門とは違って、ある人間の「心」がどんな状態にあるかというのは顕微鏡を使ってもCTを使っても見通すことはできません。

ですから心因性と思われる症状があるときも、なにが「本当の原因」なのかというのはどんな治療者にも専門家にも本質的にはわからないのです。そもそも「トラウマ」(心的外傷)という概念さえ科学的に実在が「証明」されたものではありません。ある種の説明仮説のようなものと思った方が良いでしょう。現に「トラウマなど存在しない」という立場から心理療法を行う臨床心理学の一派もいるほどです(個人心理学)。

さらに言えば、「健康な心理状態」の統一的見解すらありません。DSMやICDのような国際的な診断マニュアルはもちろんありますが、それだって多くの恣意性を有しており絶対的な基準としては用いることには多くのハードルがあります。極端な話をすれば、精神疾患とは「なんか変」を医学的に言い換えたに過ぎません。そしてどんな行動なり状態が「なんか変」と見做されるかは国や地域や時代によって大きく異なります。

つまり、あなたが性暴力被害によってトラウマを負っているとか、そのトラウマによって精神を病んでいるとか、そういうことを100%の確信をもって断言できる存在はこの世に存在しません。それは精神科医であろうが臨床心理士であろうが例外はありません。そういう意味で、「メンタルの不調は全て過去の性被害が原因」と繰り返し主張されてるご友人はなんの根拠もない個人の主観的印象を押し付けているに過ぎないと言えます。

ただし、過呼吸なりフラッシュバックなり脅迫観念なりという具体的な「症状」に対して効果を示すと証明された療法は存在します。相談者様の受けた曝露療法はその一種ですね。いわゆる認知行動療法と呼ばれる心理療法の一流派は、技法を定型化し具体的な症状にのみ焦点を絞るためEBM(エビデンスに基づく医療)が重視される昨今とても広まっています。

行動療法を通じて(心的外傷が原因であると推測される)諸々の「症状」に対してアプローチし、そうした症状をすっかり取り去ってしまう。それは勿論可能です。あなたもそうした治療を通じて過去トラウマ由来と推測される症状を取り去ったわけですが、行動療法の世界観においてそれは「完治」と言えないこともないでしょう。フラッシュバックや過呼吸や脅迫観念や動悸などの「客観的に測定可能な症状」にのみ焦点をあてる。それが行動療法だからです。

でも、そんなこと言われても納得できないですよね。なぜなら現に再び症状が現れてしまった。完治したと思ったのにまた症状が出てきたわけですから「本当は治ってないのでは?」と思うのはごく自然な感覚です。

ただ繰り返すように、心は目に見えないのです。身体の中になにか腫瘍のようなものがあって、そこから定期的に膿が噴き出してる。そんな状態なら「完治」させることもできます。腫瘍を手術で取り除くなり、レーザーで焼き切るなり、そうやって腫瘍を消滅させればそれは「完治」でしょう。

でも心は目に見えない。心はときに大きく変動して様々な状態を我々にもたらすわけですが、その背後になにがあるのかは本質的には感知できないのです。ある日突然生じた過呼吸なりめまいがトラウマ由来なのか、単なる個々人の体質や気質によるものなのか、誰にも100%確実なことは言えません。だから精神科医療や心理療法というのは症状に対する対処療法に限定されがちなのです。これは「心」という目に見えない対象を相手取る上での避けられない限界と言えるかもしれません。

以上、教科書的な基本知識についてお伝えしましたが、おそらく釈然としないものを感じているのではないかと思います。なぜなら、こうした説明はあなたの苦痛に対してなんの答えも解決も与えていないからです。「あなたの苦しみは原因不明です」と言っているに等しい。

個人的に、メンタルヘルスの問題に悩む当事者にとって最大の苦しみのひとつは、苦しみの原因を誰からも教えてもらえないことにあるのではないかと思っています。なにせ、精神科医や心理士といった専門職でさえ確定的なことは何も断言できない。これが虫歯や盲腸だったら治療者はレントゲン写真を見せつつ「ここにあなたの痛みの原因があります」と具体的に教えてくれるわけですが、こと心の問題においては「答え」を断言できる者はひとりも居ないのです。もしいたらそれはペテン師だと思っていい。

ここに、めまいや過呼吸や脅迫観念やうつ症状などの具体的な「症状」とはまったく異なる、しかしそれでいて深刻な問題が立ち現れてきます。

自分の精神はどこか他人と違うのではないか?どこか不健全なのではないか?本当の人生を生きれてはいないのではないか?という不安。いわば自分のアイデンティティに対する不安です。

「性被害からの完全な回復は可能か」という相談内容は、このアイデンティティ対する不安と密接に関係しているのではないか。そう自分は感じました。性暴力被害という過去を経た上で、自分は本当の健全さを、本来性を、あるべきだった自分を取り戻せるのだろうか?という問い。

これは性暴力被害に限定されません。逆境体験を経験した多くの方が共有する問題意識です。ひきこもり経験を持つ自分はまともな人間になれるのか。発達障害を持つ自分は健常者のように生きれるのか。親から虐待されて育った自分は結婚して子供の親になることができるのか。精神障害者と認定された自分に生きる価値は存在するのか。性的少数派の自分は汚らわしい存在なのではないか。病気休職中の自分は社会人として無価値なのではないか────。

心の問題の多くに、単なる「症状」とは違うアイデンティティの問題があります。アイデンティティというやや青臭いニュアンスを持つ心理学用語に抵抗があるなら、似たような意味を指す「実存」という哲学用語を使ってもいい。「自分の存在」をうまく肯定できないことに対する悩みと苦しみ。それは向精神薬や認知行動療法だけでは解消できない問題です。そしておそらく性被害のような逆境体験が持つ本当の難しさは、こうした「実存」的な部分に軸足がある。


「人間は自由の刑に処されている」

重要なことなので繰り返しますが、心の問題には個別具体的な「症状」と、単純に具体化できない「実存」的なものの2種類があります。この2つを混合してはいけません。まぁ自分の内心をクリアに省察できないのが精神の病のよくある症状だったりもしますし、脅迫観念のように「症状」でありながら「実存」(自分の存在)への価値判断を含みうるものもあるので切り分けるのは難しいのですが、できるだけこれらを峻別するよう心掛けてください。

具体的な「症状」については、エビデンスを有する多くの治療法が存在します。病院に行って薬を処方してもらうなり、行動療法を受けて症状の緩和を目指すなり、そういったアプローチが多くの場合は望ましいでしょう。相談者様は感覚過敏、頭痛、めまいといった具体的な「症状」が出ているわけですから、これは「症状」を緩和させる専門職と相談しないことにははじまりません。

「過去の曝露療法によりPTSDは治ったはずなので現在の不調はトラウマとは関係ないのでは?」という予断はやや的を外しています。行動療法の世界観においてアプローチの対象となるのは基本的に「症状」のみです。治療を経て症状が解消されたとしても、それは必ずしも二度と症状が出ないことを意味しません。曝露療法で症状が緩和された前歴があるわけですから、もう一度そうしたアプローチを試してみるのは悪くないと自分は思います。心理的原因の自覚がなくとも、症状の原因を当事者がはっきり自覚できるのはむしろ稀なケースでしょう。

具体的な「症状」のケアはエビデンスに根差した医療や心理療法に頼るメリットが大きいという大前提を踏まえた上で、改めて「実存」(自分の存在)の問題について考えてみようと思います。そもそも「自分の存在を肯定する」とはどういうことなのか。これは時代によってかなり意味が変わってきます。

まず近代以前の時代は、「良い」とされる生き方が明確に規定されていた時代でした。家族を大切にし、権威に従順で、敬虔な信仰を持っていること。こうした時代において「自分の存在を肯定する」のはある意味で簡単です。「社会が定める正解の生き方に自分を合わせること」。それのみが唯一の生き方であり、自分を肯定する方法でした。

つまり前近代において、「うまく自分を肯定できない」という実存的な悩みは存在しないのです。「ゲイである自分を肯定できない」とか「やりたい仕事がみつからない自分を肯定できない」という葛藤は存在しない。「ゲイをやめろ。実家の農家を継げ」という規範的な命令のみがあって、そこに悩んだり考えたりする余地はありません。ある意味で近代的な葛藤に思い煩わされることのない、幸福な時代だったと言えるのかもしれない。

そんな中、およそ200年ほど前に近代という時代がはじまって、人々は「良い」とされる生き方のモデルを喪失しました。信仰が廃れ、価値観が多様化し、どんな生き方が「良い」ものなのか、誰にも確信をもって断言することができなくなっていった。

サルトルという哲学者はこうした状況を指して

「人間は自由の刑に処されている」

という言葉を残しています。全てががんじがらめに決まっていた時代から、あらゆる価値を個々人が自由に決定できる時代がはじまった。しかしその自由は一種の刑罰として人々を深刻に苦しませるようにもなった。

「性暴力被害のトラウマと価値観の多様化はあまり関係ないのでは?」と思われるかもしれませんが、セクシュアリティに対する価値判断の多様化は近代がもたらした最も根本的な変化のひとつです。性暴力被害の過去を持つ当事者の不全感が深まることと、近代的自由は密接に関係しています。

つまり、「セックスとはどのような価値を持つのか」という価値判断があまりにも多様化しているがゆえに、性暴力被害に対する価値判断も複雑化せざるを得ないのです。

実のところ「性被害がメンタルに与える影響は甚大で一生心に消えない傷が残る」という価値観が生まれたのはごく最近のことで、それは女性の権利の重要性を強調するためのレトリックという側面も多分にあったわけですが、そうした価値判断の正否や恣意性が誰にもわからなくなっている。ゆえに性暴力被害という逆境体験が持つ意味自体も複雑さを増し、結果として実存的な悩みに結びつきやすくなっている。

このような現代社会において人間はどう生きていけば良いのか。

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週に1-2回程度更新。主な執筆ジャンルはジェンダー、メンタルヘルス、異常者の生態、婚活、恋愛、オタクなど。

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