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庵野秀明はもうエヴァンゲリオンを創れない

2016年、「シン・ゴジラ」を観たときにふと思ったことがあった。

庵野秀明は、もうエヴァンゲリオンを創れないんじゃないか、と。

「シン・ゴジラ」は絆の物語だった。震災(ゴジラ)という巨大な脅威に人々が立ち向かう物語。省庁の垣根を超え、官民の垣根を超え、現場と会議室との垣根を超え、国と国との垣根を超え、人々は連帯し、協力し、共闘する。

人と人との間にある見えない壁を、A.T.フィールドを超えて、人と人とが繋がり脅威に立ち向かう物語。それが「シン・ゴジラ」だった。

そしてそれは、素晴らしい物語だったとも思う。筆者も劇場で何回か観て、その後もBDディスクを購入し何十回と観ている。特に陳腐化しつつあったゴジラという怪獣を、震災という記憶に新しいイメージに乗せて蘇らせたところは鮮烈としか言いようがない。1954年の人々が初代「ゴジラ」に感じた衝撃と近いものを「シン・ゴジラ」を観た我々は感じることができたのではないか。それは紛れもなく偉大な仕事だ。

しかし一方で、言うまでもないことだが、エヴァンゲリオンという作品は絆を紡げない人間たちの物語だった。

他人の心がわからない。どうすれば優しくしてもらえるのかわからない。人が怖い。人の心が怖い。人に傷つけられるのが怖い。人を傷つけてしまうのが怖い。人と人の間にある見えない心の壁が怖い。わかってもないのにわかった振りをされるのがこわい。むき出しの心と心でつながりたい。でもそれは怖い。

他人の心に触れたいのに、心の壁(A.T.フィールド)が人と人を遠ざけ、人と人を傷つけてしまう。それこそが「新世紀エヴァンゲリオン」という作品の核心的なテーマだった、と筆者は思う。

リツコ:シンジ君って、どうも友達作るのには不向きな性格かもしれないわね。ヤマアラシのジレンマ、って話知ってる?

ミサト:ヤマアラシ?あのとげとげの?

リツコ:ヤマアラシの場合、相手に自分の温もりを伝えたいと思っても、身を寄せれば寄せるほど、体中の棘でお互いを傷つけてしまう。人間にも同じことがいえるわ。

リツコ:今のシンジ君は、心のどこかで痛みに怯えて、臆病になっているんでしょうね…。

ミサト:ま、そのうち気付くわよ…大人になるってのは近づいたり離れたりを繰り返して、お互いがあんまり傷つかずに済む距離を…見つけ出す、ってことに。

(引用:新世紀エヴァンゲリオン第参話「鳴らない、電話」)

「近づいたり離れたりを繰り返して、お互いがあんまり傷つかずに済む距離を見つけ出す」。そんな大人としての成熟を遂げられなかったのが旧エヴァ世界の大人たちだ。だからゼーレの老人は人と人の間にある心の壁を補完計画で取り去ろうとし、ゲンドウはユイを失ったことを諦められなかった。心の壁、A.T.フィールドに翻弄されていく人間たち。テレビシリーズと旧劇場版を通じて描かれる「エヴァンゲリオン」の核心が、それだった。

しかし旧エヴァで提示された「他人の心が怖い」というテーマは、シン・ゴジラでは完全に棄却されている。人と人はわかり合える。心と心は通じる。そうした世界観の上にシン・ゴジラは成り立っている。

旧エヴァの核心的なテーマの否定。庵野秀明はいつそのような考えに至ったのだろう。実のところ、新劇場版の最初期から既にその萌芽は表れているように思う。

わかりやすいのは「序」においてシンジがトウジを殴り返すシーンだろう。エヴァの世界観の中では、「殴ること」は「つながること」のひとつの形として描かれている。旧劇場版におけるあの印象的なラストシーンも、シンジは惣流アスカと「つながろうと」した結果として彼女の首を絞める(それは失敗に終わるのだが)。

独りよがりな八つ当たりからシンジを殴ってしまったトウジは、シンジに殴り返されることで関係の修復を望む。殴って、殴り返される。お互いの針に傷つきながらも身を寄せ温め合うヤマアラシのように。そんな関係を築こうとトウジはシンジに歩み寄る。

しかし旧エヴァにおいてシンジはトウジに歩み寄ることができなかった。言われたままに殴りはしたものの、それが彼なりの謝罪と歩み寄りであることを理解できず、独りよがりな自己否定の中に逃げ込んでしまう。

シンジ:殴られなきゃならないのは僕だ!僕は卑怯で、臆病で、ずるくて、弱虫で…

(引用:新世紀エヴァンゲリオン第参話「雨、逃げ出した後」)

「傷つけることでしか人は思いを伝えられない」
「そうしたとしても、思いが通じ合うとは限らない」

そうした旧エヴァの世界観が良く表れている代表的なシーンだが、新劇場版:序においてはこのシーンは大幅に改変される。トウジを殴り返したシンジは彼の意を汲み取り、はにかんだように微笑む。そう、思いが通じ合ってしまうのだ。

新劇場版:破においてはこの傾向はさらに加速する。

シンジはゲンドウと連れ出ってユイの墓を参り、リツコはレイの手の傷を包帯で癒し、アスカに殴られかけたレイは殴られることを拒絶し手を掴み、レイのためにアスカは実験機のテストパイロットを代わり、レイはそれに礼を述べ、未遂で終わったとはいえレイの発案によるゲンドウを含んだ会食が開催されかける。旧エヴァで描かれた「人と人は繋がれない」という切実なテーマが、「破」では片っ端から否定され続ける。

旧エヴァ世界観の徹底的な否定。これはどのような新しい物語に繋がるのか。設定よりも物語を重視するタイプのファンは誰もがそう考えて、そして迎えたのが「Q」だった。そして啞然とした。そこには何もなかったからだ。

何の内容もない、と言えば少々度が過ぎるかもしれない。「セカイ系批判」という極めてどうでもいい話(セカイと引き換えにヒロインを選んだとして、その選択に責任を負えるのか?)だけはつらつらと展開されていた。

しかし言うまでもなくエヴァンゲリオンという作品の核心はそこにはない。人と人が繋がれないこと。心と心の間にある見えない壁。そこにしかテーマはない。

90年代に話題化した「オタク批判」という文脈も、写像としての他者ではなくむき出しの他者に向き合えというだけの話で、庵野の考えるあるべきコミュニケーションの形がややマッチョであるために生じた枝葉に過ぎない。

エヴァンゲリオンという作品は、頭から足のつま先まで徹底して、心と心のつながり(の不可能性)についての物語だった。

なぜこんなことになってしまったのだろう。なぜ「Q」は本筋から外れた、陳腐なテーマしか提示できなかったのだろうか。

無論、庵野秀明がエヴァンゲリオンのセントラルドグマである、「他人の心が怖い」という気持ちを失ったからに他ならない。

つまり庵野秀明は回復したのだ。心と心の間にある見えない壁に怯え、心と心を触れあわせれば傷つけ合ってしまうという絶望感と不信感、そこから彼は回復したのだ。恐らくは幸福な結婚によって。

であるならば、新劇場版とは何だったのだろう。回復した庵野にとって、なぜ再びエヴァンゲリオンを創らねばならなかったのだろう。

もちろん2006年に新会社である株式会社カラーを立ち上げ、鉄板のコンテンツが必要だったという経済的な要請が第一にあったのだろうが、それでも意欲と企画とテーマがあったはずだ。その上で筆者はこう邪推する。

新劇場版とは庵野にとって、過去との対決だったのではないか。

他人を恐れ、不器用な形でしか他人とつながれず、人と人との間には軋轢しか無いのだと絶望していたかつての自分。その時代の病んだ己の呪縛を、否定し、侵略し、征服する。そのための企てが新劇場版だったのではないか。

エヴァの呪縛。しかしその闘争は「Q」を見る限り完全な敗北に終わった。彼は勝てなかった。それに打ち勝つ価値観を提示できなかった。当然だ。無理もないことだ。

人はわかりあえないという旧エヴァ的な世界観と、人は連帯し巨大な脅威に立ち向かえるというシン・ゴジラ的な世界観、どちらが現実でどちらが虚構なのだろう。無論、旧エヴァ的な世界観こそが現実である。

現に原発事故は何の解決にも至っていない。強力なリーダーシップと人々の紐帯によって国難を打破する。そんなことは物語の中だけで起こることだ。シン・ゴジラのような奇跡は現実には起こらない。

クリエイターにはふたつの道がある。

人々がふだん目を背けている見たままの残酷な現実を、そのままに写実的に描き晒すという道。

そしてもうひとつが、残酷な現実を生き抜くために、人々の心に希望を灯す虚構を紡ぐ道だ。

前者の作品が旧エヴァであり、後者の作品がシン・ゴジラだった。庵野は回復したことによって前者を創る能力を喪ったが、後者の作品を創る瑞々しい力を新たに獲得した。

だからもう、いいのだ。

庵野はエヴァンゲリオンを創らなくても、良いのだ。

シン・エヴァは陳腐な大団円を迎えるだろう。

人と人は分かり合えないというむき出しの現実ではなく、希望としての虚構がきっと描かれるだろう。

しかし、それでいいのだ。

庵野はもう、エヴァを創らなくても、いい。

結局、映画は大当たりして、俺は全シリーズ撮ってくれと依頼された。こうして俺は『奇跡の武器』というタイトルのもと、わが軍の最先端テクノロジーをテーマに七本の映画を撮った。取り上げた武器はどれもこれも戦略的には無意味だったんだが、心理的な意味では戦争に勝利をもたらす要因となった。

ーそれって要するに…。

嘘か?ああ、そのとおりだ。たしかにあれは嘘っぱちだったが、嘘が悪いとはかぎらない。嘘は善でも悪でもない。火みたいなものだ。暖めてもくれるし、焼死の原因にもなる。使い方次第だ。

(中略)

「わたしたちはうまくやれる」それが俺たちが発したメッセージだ。そして他のあらゆる映画制作者が戦争中に発したメッセージでもある。「英雄都市」について聞いたことはあるか?

ーもちろん。

すばらしい映画だ。マーティは包囲の全期間にわたり、撮影を敢行した。たった一人、利用可能なあらゆるメディアを駆使して。とてつもない傑作だよ。勇気、決意、気高さ、名誉。あれを見ると心底、人類を信じたくなる。俺のどの作品よりも素晴らしい。きみも見るべきだ。

ー見ましたよ。

どのバージョンで?

ーいま、なんて?

きみはどのバージョンを見た?

ーバージョン違いがあったとは…。

初耳か?下調べはしておくもんだよ、若いの。「英雄都市」には戦時編集バージョンと戦後編集バージョンの二種類がある。きみが見たのは九十分のほうか?

ーそう思います。

英雄たちの暗黒面は取り上げられていたか?「英雄たち」の内面に潜む暴力性、背信や残忍さ、底なしの邪悪さが描かれていたか?もちろん、そんなはずはない。当然じゃないか。それは俺たちの現実そのものだ。人々はこの現実に耐えきれず、次々と安らぎの床に身を横たえ、命の蝋燭の炎を自ら吹き消し、そして息を引きとった。マーティは別の面を示そうと決意した。翌朝、目覚めたときに寝床から起き出そうという気にさせ、大丈夫というメッセージを与え、見る者の心に石にかじりついてでも生きのびなければならないという気持ちをかけたてるような。この手の嘘にどういう名前がつけられてるか知ってるか?「希望」というんだよ。

(引用:「WORLD WAR Z」(上)

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週に1-2回程度更新。主な執筆ジャンルはジェンダー、メンタルヘルス、異常者の生態、婚活、恋愛、オタクなど。

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