見出し画像

「安全圏から他人をバカにしたい」という令和の時代精神

先日なんとはなしに「タワマン文学」についての批判的な批評めいたことをつぶやいたら、Twitter各所でタワマン文学への批判や悪罵が同時多発的に勃発し、ついには「タワマン文学」がトレンド入りするという珍事が発生してしまった。どうやら表面張力的にまで蓄積されていたジャンルへの反感に、最期の一石を投じてしまったらしい。

といっても、筆者は「タワマン文学」とその作者に特段の悪感情があるわけではない。むしろ令和の時代精神に上手く適応した巧妙な書き手であるという印象すら抱いている。

タワマン文学が代表するのは「安全圏から他人をバカにしたい」という現代のゴシップ的欲望だ。これは「安全圏から」というのがミソで、「他人をバカにしたい」の部分はポイントではない。2000年代の2ch炎上にせよ、昭和平成のゴシップ週刊誌にせよ、「他人をバカにすること」は古今東西変わらない大衆的娯楽の筆頭である。それ自体は今に始まったことではない。

令和のゴシップの特色は、発信者に「主語」が存在しないことだ。

たとえば昭和平成の大衆週刊誌であれば、そこには「庶民」という主語が存在した。中間層としての、大衆としての、平均的日本人としての「庶民」という主語が設定され、そうした庶民感覚からゴシップの対象がいかに逸脱しているかが攻撃された。それは政治家の汚職でも、芸能人の薬物スキャンダルでも、官僚の性接待でも同じことだ。「こんなことは庶民感覚からすればあり得ない」という糾弾。「庶民感覚」という規範が存在し、当然ながら「庶民感覚」の範疇にあるスキャンダルには手心が加えられた。

これは新聞等のやや高級なメディアにおいても同様だ。各誌それぞれに異なる「あるべき市民像」が想定され、そこから逸脱した著名人が攻撃の対象となった。公人が靖国神社を訪問することは朝日新聞においては大問題だが、産経新聞にとっては賞賛すべき行いとなる。メディアの「主語」によって筆致が変化したのがオールドメディア時代におけるゴシップだ。

しかし令和のゴシップには、繰り返すように「主語」が存在しない。

参照されるべき規範や価値観が存在せず、もしくは極めて希薄化されており、ゆえに何かしらの価値観やルールに則った「批判」というものが存在しなくなっている。

タワマン文学を例に取ろう。

タワマン文学においては、「郷土の期待を背負って東大から日系メーカーに就職したサラリーマン」(※1)と、「機能不全家庭から苦学して早稲田の文学部に進み中小出版社に就職したサブカル男」(※2)が、全く同じ筆致で嘲笑される。

しかしこれは、本来であれば両立できない嘲笑である。

ここから先は

2,102字
週に1-2回程度更新。主な執筆ジャンルはジェンダー、メンタルヘルス、異常者の生態、婚活、恋愛、オタクなど。

狂人note

¥1,000 / 月

月額購読マガジンです。コラムや評論が週1-2本更新されます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?