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私にまとわりつくもの~パニック障害~

全ての始まりは4月8日になったばかり(深夜の12時半)。


私は浴槽に浸かりながら好きな音楽をスマホで再生していた。気分が良くなって歌ってみたり、笑ってみたり。


そんないつもと変わらない入浴タイムを終え、いざ身体を洗い流すかと浴槽から立ち上がった途端、急な息苦しさと動悸に襲われたのだ。


私は少し落ち着こうと風呂場の扉を開け、涼しい風にあたった。


しかし、息苦しさと動悸は増すばかり。一向に落ち着かずに私の脳内はパニック状態に。



―やばい。このままじゃ死ぬ。



急いで自分で救急車を呼び、力の限りそばに置いてあったパジャマに着替えしリビングで横になって呼吸を整えながらサイレンの音を待ち続けた。


その間にもよく分からない呼吸困難が続き、さらに手脚の冷えと震えと痺れ、吐き気、喉の渇きが襲い、このまま死んでいくのかと覚悟した。


5分後ほどで救急車は到着し、なんとか自力で救急車まで歩き乗り込んだ。


車内ではすぐに酸素を測り、心電図、血圧、体温を測定した。人生初の救急車で運ばれたためか、余計に怖くて苦しさは増していく。苦しいと呻き声を何度もあげていた。


市立病院に運ばれると、再び心電図、血圧、体温、酸素、さらに採血まで行った。医師に長く息を吐くように促され、素直に従い検査結果が分かるまで続けていた。


検査の結果は過換気症候群。過呼吸だった。医師によると若い女性に多く、ストレスが原因ではないかという見解を出した。


そのとき私は就活真っ最中であり、さらに卒論に急かされていたのである。


あ、もしかしてこれらがストレスだったのかもと思いながらも上手くストレスを解消する方法を見つけるしかないなと思う程度でその日は落ち着きを取り戻した次第、タクシーに乗り込み帰宅した。時刻は2時半を回っていた。



それからの生活というもの、ほとんど変わらずに過ごしていた。まあ変わったことといえば市販のストレスを緩和する漢方を購入し服用したくらいだ。


過呼吸を起こしてからどうも息苦しく、ストレスのせいだと思っていたためだ。



しかし、状況が一変したのは4月28日。雨が降りそうな夜だった。漢方を服用していたにも拘わらず再び過呼吸を発症し、違う病院の救急で診察してもらった。


やはり、医師の判断によると過呼吸で心療内科で見て貰った方が良いと促された。


4月8日の過呼吸を経験してから自分でもネットで調べ、もしかしたらと候補にあがったのはパニック障害。人によって症状は様々であるが不安だったり、焦り、心配が引き金になって過呼吸を起こしたりめまいがしたり、酷い場合だと失神することもあるのだという。


たまたま4月28日の翌日にはパニック障害を漢方で治すという考えの漢方屋さん?に行く予定があったためそのことを医師に伝え、その日は雨が降り始めた頃に調子が良くなり帰宅したのだった。


翌日、また過呼吸になるかもしれないという恐怖に襲われながら電車に乗り込んでその漢方屋さんに向かおうとした。


すると最寄り駅を降りた瞬間のあの人混みに急に迫られるような感覚がして、思わずしゃがみ込んでしまった。過呼吸が発症するギリギリの手前だったのだ。


水を一口飲み込み、なんとか自我を保ちながら途中途中休憩しつつ10分ほどで到着するはずの漢方屋さんに20分かけてたどり着いた。


帰りも酷い不安に駆られ、やっとの思いで帰宅。すぐさま処方して貰った煎じ薬やら飲み薬を飲んだところ、そのときは薬が驚くほどに良く効いた。


しかし、飲み続けるほど徐々に薬の効果は薄れ、次第には自分一人で何も出来ない状態に陥るほどの体調不良になってしまったのだ。気持ちもずっとやる気がでない。


そのため、コロナという恐ろしい敵がいたのにも関わらず、友人に寝泊まりして貰ったり弟に来て貰ったり、とにかく不安を取り除こうとしていた。


しかし、もう無理だった。


そんな私を案じて母は急遽飛行機で遠い実家から駆けつけてきてくれたのである。5月3日のことである。


体調不良になってから頻繁に連絡を取り合っていた存在でもあったし、何より母だ。とてつもない安心感に母の姿を見たときは自然と涙が溢れ出た。それほど精神的にも辛かったのだ。


母の看病もありなんとか笑えるくらいには回復したが、肝心の身体は未だに弱ったままだ。体重も日に日に減少していく。そこで近くの心療内科で診察して貰ったところ、結果は疲労による軽い鬱。一ヶ月の療養は必要とのことだった。


私はその結果を知った瞬間、どばっと涙がこぼれ落ちた。多分安心したのだろう。自分が軽い鬱でしかも疲労によるものだと。


ちなみにそのときにはもう実家で休養するということを母と決めていたため、薬は一ヶ月分処方された。それでも調子が良くならなかったら地元の病院を紹介してくれるとのことだった。


一人暮らしのマンションに帰り、いざ薬を服用しようとしたところ母が眉をゆがませた。その理由は、「24歳未満の使用には十分気をつけてください」という注意書きがあったためだ。


医師の方からはただ眠気の副作用があるとしか説明を受けていない。母からその注意書きを聞き、感覚的に怖くなり私はその薬を一粒も服用しなかった。少し話が逸れるがこういう私の勘は外れたことがない。だから、医師には申し訳ないが一切服用しなかったのだ。


そのまま翌日には実家に戻り、新たな病院探しと療養が始まったのである。


食事療養、針治療、整体、漢方。良くなるために全て行ったが全く良くならず症状は余計に悪化するばかり。


もしやという思いで他の病気も疑ったが、何の異常も無くどの病院でも心療内科を受診してくださいと言われる。しかも同じ部屋に母がいないと不安でたまらない、そんな極度の精神的不安も起きていたのだ。


もうだめだ。何をしても治らない。しかも、行きたい心療内科は予約でいっぱい。次の予約はいつできるのかも分からない。


そこで意を決して、心療内科ではなく精神科のある市民病院へ脳神経外科の病院の医師に紹介状を書いて貰い受診したのだ。


私の勘は当たっていた。いざ診察して貰ったところ、軽い鬱状態ではなくパニック障害だったのだ。さらに軽症。主治医からはそのときの薬、飲まなくて正解だったねと言われた。


母と胸を撫で下ろしながらパニック障害に対する薬を処方してもらい、その日の晩からやっと本格的な治療が始まったのである。6月10日のことだ。


眠気と吐き気の副作用があると覚悟した上でその晩は休んでいた。しかし、急に身体が痙攣し始め過呼吸を起こし、猛烈な吐き気に襲われた。思わず夜間救急のほうで受診したが、何も出来ることはない、ただの薬の副作用で吐き気が落ち着くまでには少し時間がかかるから様子を見ようということになった。午前4時帰りだった。


吐き気は一日中続いた。朝昼晩。ほとんど何も口にできなかったほどだ。


主治医には副作用が怖かったら薬は飲まなくて良いですとは言われていたものの、飲まずには何も始まらないんじゃないかと思い、2日目も恐る恐る服用した。


服用10分後、吐き気が湧いてくる。来るぞ、と覚悟しながら痙攣やら過呼吸が起きないようにと祈りながら様子を見ていたが結果、前日の副作用を遥かに超える吐き気と痙攣と過呼吸が発症し、私の中ではもう限界だった。そして、感覚的にこれはちょっとやばいぞと危機感を握りつぶしていた。


しかし、母は副作用は徐々に軽くなるって聞いたし2日連続で夜間救急に行くのもちょっと、とためらい私は必死に「お願い!連れて行って!もうだめ!しんどい!お願いします!」と声にならない声で必死に訴えた。


母はなら自分で電話しなさいと言い、私は絶賛副反応が酷い状態のまま電話をし、幸いなことに診察して貰える事になったのだ。確か午前5時前だったきがする。


意識が朦朧とし、もはや一人では歩けない状態。いや、立つことも出来ない状態だった。


診察結果は同じ。薬の副作用。でもほとんどご飯を食べられていないということもあり、点滴をした。点滴中も吐き気が酷く何度も嗚咽を繰り返したが、吐きたくてもはけない。食べていないのだから。


点滴をしながら、医師の話を朦朧とした意識の中で聞いたところ、副作用が抜けるのは1日はかかるそう。


ご飯を食べられる状態ではなかったため、点滴が終わったら自宅でスポーツドリンクを3本飲ませてくださいと母は言われ、点滴のてちてちと一律のリズムを聞きながら私は目を閉じた。


点滴が終わった頃は大体午前9時前だっただろうか、いや9時は過ぎていただろうか。会計を終え、さあ帰ろうというときになって病状は一瞬のうちに悪化した。何度も目の前が真っ暗になり、ああこれが失神になるかもしれないのかと思いながら、母に失神しそうと今にも消えそうな声で伝えた。


母は少し休んでから車を出入り口前に回すから帰ろうと言い、20分間休んでから車を移動させるため私を待合室に一人残しながら外に出て行った。


しかし、その間も何度も真っ暗になる目の前。誰かが支えてくれないとふらっと倒れてしまいそう。意識を保つのもやっと。


自力で歩けない私のために車を出入り口まで回して本当に帰るぞというときに母の力に頼って立てたものの一歩が踏み出せなかった。今にも動けばぱたっと失神しそうで。


それでも一歩一歩と意識をしっかり持ち、出入り口まで向かおうとしたところ後ろから誰かの駆け足の音と私の名字を呼ぶ声がした。土曜日なのに主治医が奇跡的にいたのだ。


すぐさま診察して貰ったところ、主治医が予想していた以上に薬に対する不安が大きかったようで吐き気が引き金になってパニック発作を起こしてしまっていたという。


「夜間救急に来るほどだから結構副作用は大きかったと思われるし、今の状態だと不安も大きいままだ。まずは安心させる必要がある。今の状態だったら入院してもいい」


私は自宅で様子を見るか、入院するか迷った。入院するなら一人部屋がいい。でも、もし入院するなら4人部屋になる、と。でも入院を断ったら私は自宅に帰って不安が大きいまま1日を過ごさなければならない。


私はもはや力尽きたように言った。


「......入院します」



入院すると決めてからは、地獄のようなスピードで物事が進んでいった。病院で用意された寝間着に着替え、採血され、心電図を測定し、レントゲンを撮り、車椅子に座らせられ精神科病棟へと直行。


何も考えられない頭で精神科病棟の説明を受け、いざ4人部屋の病室に向かうともうすでに3人埋まっていた。


そのとき担当してくださった女性の看護師はさっそく点滴を打とうと試みる。しかし、私はすでに両打ち肘側は点滴やら採血やらで止血ほやほや。しかも、私は血管が見えにくく何カ所か針を通したが上手くいかず、結局他の女性看護師にバトンタッチ。



少ししてきた代わりの女性看護師は2回くらいで点滴の針を血管に通せたようで、私もひと安心したのも束の間、徐々に腕が腫れ上がってくる。その様子に恐怖を感じ、すぐにナースコール。



「すみません。腕が腫れてきました!」



今まで点滴をして腫れるという経験をしたことがなかったため、その様子が気持ち悪く、そして怖くて流れるように発作を起こしそうになった。そしてまたナースコール。



「すみません!発作が起きそうです!」



廊下からばたばたと走る音が聞こえ、点滴を打ってくれた女性看護師は大丈夫?としきりに背中を擦ってくれた。深呼吸をしてと言われても私の身体は言うことを聞かない。ついでに吐き気もして、吐きそうと何度か嗚咽をした仕舞である。


一旦、点滴は中止。落ち着いてから今度は反対の手首に針を通し、なんとか無事成功した。やっとこれで私も楽になれる、久々に感じた安心感だった。



1日3袋点滴をし、吐き気止めと不安を緩和する薬を服用する生活を3日で終え、徐々に私の食欲も戻ってくる。やっとご飯が普通に食べられる。元々食べることが好きだった私は、食べられる喜びを噛みしめて静かに涙を流しながらご飯を味わった。



とある日、主治医からとある提案を持ちかけられた。



「私は薬療法に専念します。だけども、薬だけでは今の時点では良くならない部分も出てくると思うんです。そこで、認知行動療法をやってみませんか?入院患者を担当する看護師なので入院していないと出来ないことなのでもしやりたかったら」



その認知行動療法というものは考え方から変えていくという療法であり、薬と同様に効果を得られる可能性もあるという。たまたま、その療法が出来る看護師が病院内に一人しかいなく、少し洗脳っぽく聞こえた私は母に相談してから決めますとその場では決めなかった。


母との面会時、主治医に言われたことをそのまま話すと母はとても嬉しそうに泣きそうにしていた。なぜだか分からない私は何があったのか聞いてみると、母は認知行動療法をやってくれる病院を探していたらしく、市内には一件しか見当たらずしかも予約の取りづらい病院なんだという。だから、やって貰えるのなら是非やって貰いたいと母からの願いだったのだ。


やはり私の入院するという判断は間違ってなかったのだ。


後日、主治医に認知行動療法をやると伝えると数日後に担当の看護師が挨拶に来るのでそこからスタートさせましょうということだった。このことは私にとって大きな変化を与えてくれたのだ。


数日後に挨拶に来た男性看護師は、私の父と変わらないような年齢でいかにも疲れてそうなそしてかったるそうな感じだった。なぜなら目の下に隈をつくっていたという事実もあるが、挨拶の時「ちっす」と片手を上げて猫背気味に頭を突き出した。



―本当にこの人が治療してくれるのだろうか。なんだかやばい看護師だな。



人は見た目で判断してはいけないとは思ってはいたが、挨拶早々私は不安が募った。


いざ、認知行動療法を始めるとその男性看護師はとてもユニークでまだ会って2回目なのに私の笑いのツボをしっかり捉え、そしてなによりも頷きながら話を最後まで聞いてくれる優しさを持ってくれる、とてつもなくいい看護師だった。どことなく父のような包容力もあり、不思議とこの人なら何でも話せると思えた。


私の場合は薬の服用と同時に認知行動療法をやると決めたのだが、認知行動療法を重ねるごとに実は薬よりも自分には認知行動療法の方が向いているのではないかと思えてきたのだ(認知行動療法の効果はあくまでも人によります)。


認知行動療法において「どういうときに発作が起きるのか」「なぜ不安を感じるのか」と今までの自分を振り返るため自分がパニック障害になった原因が分かる。


大抵は広い場所が苦手、人混みが苦手という自分の苦手などはっきりとした原因があるらしいが彼曰く、私には明確な原因がみられないと言われた。


ただ、一つだけ考えられるとしたら私の考えや内面によってパニック発作が起きたかも知れないらしい。


よく私は他人の前では何があってもポジティブで常に笑顔で明るいねと言われることが多いが、一人の時間になると人が変わったように思考はネガティブ、言い癖は「でも」なのだ。しかも、この際だから自分でも言ってしまうが生真面目で頑固で責任感も強い部分がある。


これらが私にとっては良くも悪くもあり、塵も積もれば山となって自分の首を自分で絞めていた部分があったという。


なんだか占い師に見て貰っているかのような感覚で「そう!そうなんです!」「え!なんで分かるんですか!?」「あー、分かります。自分でも母にも直せとは言われているんです」とずばずばと私の内面を覗かれた。


ただ、幸いなことに私はまだ軽いパニック障害でこれから考え方も変えられるような若い年齢だからそこまで厳しいことは言われず、ただ「大丈夫だから。良い方向に変われるから」と何度も彼に励まされ、明るさの灯を灯してくれた。


治療を進めるごとに彼と私は父と娘のような関係性になりつつあり、周囲の看護師さんからも「ちょっとお父さん、娘が治療受けるために待ってるよ!」などの笑いも生まれるほど、ある意味私にとっては彼の治療を受けるための入院生活が居心地の良い時間となってしまった。


あれは確か7月中旬だったころ、主治医から退院の話が出た。もう入院しなくても外来で診られる状態にはなっているからお盆前には退院しましょうとのことだった。



―――やはりその時期が来てしまったのか。



私は自然とその気持ちが心の中に浮かんだ。「やった!やっと退院できる!」という気持ちにはなれなかった。


なぜなら不安や悩みの全てを吐き出せる存在(男性看護師)が退院したらいなくなってしまうという不安が大きくて。あまりにも彼に全てを吐き出していたせいか、退院後の吐き出し場をどう見つければ良いかと相談した程だ。


刻々と退院の日は近づき安定していた体調は不安が募ったせいなのか、ぶり返すように少し症状が入院前に戻ったみたいだった。


そして入院最後の夜、彼は私が不安で寝れないだろうから一つだけ聞きたいこと考えておけと敢えて私を寝させないような冗談を発した。私は一時間ほど本当に眠れずに、彼の言うとおり何か聞きたいことはないかほのかに光る廊下の明かりを眺めながら必死に探した。


翌朝、最後の彼との認知行動療法が行われた。これで最後かと思うとなんだかさみしいような気もするが、あくまでも治療であるためあまり気にせず退院後に気をつけた方が良いこと、やるべき事を確認していった。


ただ、治療を行っている風ではなくいつもの馬鹿な話だったりお互いの家族事情だったり彼の夜勤に対する愚痴を聞いたり話したりして、あまり不安を感じさせないような彼なりの配慮を感じた。それが分かってしまった私は、退院(彼との別れ)が余計にさみしく、切なく思えてきた。


最後に彼は「まあ、もしだめだったら外来でも話は聞くだけ聞いてあげれるような余裕はあるからそんときは爆発(発作が酷くなって何も出来なくなる)前に担当医に言うんだ」ととてつもない最終兵器的なことを言った。



――――――え、入院中だけしか治療は受けられなかったんじゃないの?!



私は大きな安堵感に包まれながら、彼との最後の認知行動療法を受け終えた。


たわいもない話をしながら診察室から出ると同じく夜勤だった女性の看護師さんが退勤しようとしていた。彼は今までの認知行動療法に使っていた用紙を渡すと一旦ナースステーションに戻った。


すかさず私は「お世話になりました。ありがとうございました。」と伝えると彼女は今まで見た中でも一番優しい表情で「無理はしないでね。あまり真面目に何でもかんでもやっちゃだめだからね」と声をかけてくれた。



――――――あ、もうだめだ



なんとか涙を堪えていた私に限界が訪れ、大粒の涙を流した。女性の看護師さんは彼が来るまで私を慰めてくれた。


約2ヶ月間、精神的にも身体的にも辛かったあの地獄のような日々が走馬灯のように駆け巡る。


本当に辛かった。人生で一番苦しかった。そんな私を支えてくれた人全員に申し訳なくて、ありがたくてごちゃ混ぜの感情が高ぶり、涙が止まらない。


「お、なに泣いてんだよ」と一瞬驚きながらも茶化す彼は最後の最後まで私に泣くなと繰り返し言っては笑っていた。女性看護師さんは「ちょっと、お父さん、なに泣かせてんのよ」と冗談交じりに彼に話していたが、私には第二の父といっても良いほど彼との別れが辛かった。


「もう泣くな。いいな?」


この言葉を背中に受け止めきれないまま、最後に彼とさよならをした。



荷物をまとめ、退院間近にネームバンドをはさみで切られた私は、開放感ではなくなぜか心にぽっかりと穴が開いたような喪失感に溢れていた。


空は雨模様。人々が雨に濡れてないように病院に駆け込む中、私は大荷物をもって母が車を正面玄関に回すまでただ突っ立っていた。無でいた。


まるで空が私の心を映しだしているようで悲しくなった。涙が目尻からこぼれ落ちた。それは、今まで私の吐き出した言葉を受け止めてくれた存在と会えなくなってしまう不安からきた涙でしょうか。



さあ、どうやってこれからを生きていこうか。





*今回、このエッセイを書いた理由としてコロナ禍においてパニック障害や鬱になられた方が多いと知り、少しでも情報提供できればと思い書かせて頂きました。


どんな病気もそうですが、「必ず自分一人がこんな目に」なんて思ってしまうときがあると思います。しかし、誰かが自分も、と声を上げるだけで自分は一人で闘っているんじゃないと、みんなで頑張ってるんだと不思議と心が楽になる瞬間があると思います。

 

私も多くの芸能人の方がパニック障害を乗り越えられた事を知り、自分は一人じゃないと勇気づけられました。


なかなか心療内科の予約が取れなかったりして苦しまれている方もいらっしゃると思いますが、どうか自分は一人じゃないことを忘れないでください。


そして、苦しんでおられる方に少しでも私の体験談が参考になれればと思っております。


私も退院して1週間ほどしか日数は経っていませんが、周囲の協力もありなんとかやっていけています。私もやっと本格的な治療が始まったばかりです。


一緒にゆるく向き合っていきましょう。

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