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対話を通して共に探求する

(はじめに)

このnoteは、哲学者と一般人である私との往復書簡のようなやりとりを通して、ネット上での「対話」を試みたい&読者の皆様にも「対話」を提案しようというものです。今回は、哲学者の竹之内裕文さんからの返信を掲載します。
なお、本noteは2週間に一度の公開です。ゆっくりと進んでいく対話を一緒に味わっていただけたら幸いです。

●相手の見ているものを見る

久しぶりの快晴です。この数日、静岡では激しい雨が降り続きました。雨上がりの空気は澄み、路上はまだ濡れています。今朝も一歩一歩大地を刻み、大学までゆっくり歩いてきました。

途中で足をとめ、バッグからカメラをとり出しました。二羽の鳥がかん高い声で呼び合っています。といっても初めての光景ではありません。自宅と大学の往来の途次、くりかえし目にしてきた場景です。鳥たちは特徴的な鳴き声をあげます。地上を歩く姿は薄茶色ですが、翼を広げると、鮮やかな白色が現れます。わたしはしかし、この鳥の名前を知りません。そこでだれかに尋ねようと、毎日バッグにカメラを忍ばせ、シャッターチャンスを狙っているのです。

ところが鳥たちは用心深く、シャッターチャンスはなかなか訪れません。諦めてカメラをバッグに片づけていると、一羽が翼を広げて、目の前に飛んできます。待てなかったゆえ、わたしは大きなチャンスを逃してしまいました。

ふたたび大学へ歩き始め、考えました。なぜ待てなかったのだろう。それはわたしがシャッターチャンスを待っていたからだ。鳥の名前を知りたい。だれかに名前を教えてもらいたい。そのため鳥の形姿をカメラに収めたい。いずれもわたしの欲望です。ここで鳥は、もっぱらわたしの関心から眺められている。

鳥自身はなにに関心を抱いて、かん高い声をあげるのか。なにを気にかけて、草地を移動するのか。鳥が気にかけているもの、関心をよせるものに、今朝のわたしは注意をむけられなかった。「シャッターチャンスを待つ」だけになってしまった。鳥が見ているものを見ようとしなかったため、わたしは待てなかった。鳥がこちらの飛んでくることを予想できなかった。

●問い、あなた、わたしの三角形

ある人から学ぼうとするなら、ある人を助けようとするなら、まず相手が見ているものを見なければならない。相手をじっと見つめても、その人は見えてこない。わたしはいつも学生たちに助言しています。

その人はなにを気にかけ、どのような注意を払っているのか。なにに関心を寄せ、アクションを起こそうとしているのか。なにを、どんなふうに見ているのか。そこに当人の思いがあり、その人がどんな人物であるかも、そこに現れる。

すでにお気づきかと思います。わたしは縁側モデルを改めて提示しています。座敷で、座卓を挟んで、二人が対座する場合、視線は正面の相手にむけられます。それに対して縁側に腰をおろし、お茶を飲みながら、庭先のアジサイを鑑賞する場合、二人の視線は、横の相手に対してではなく、アジサイにむけられてます。

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縁側モデルのアジサイを問いに置き換えると、対話が成立します。主題(テーマ)は問いであって、二人は共通の問いを前にしたパートナーという位置づけです。

二人は同じ問いに関心を寄せている。しかし、関心を寄せる理由はそれぞれ違う。問いそのものをどう理解しているか、どのような解答を予想しているかも異なる。見ているものは同じでも、見方ないし見立てが違うのです。

●問いの前に共に立ち、探求する

「問い」という言葉はわかりにくいですか?中学校で、高校で、わたしたちは数学や英語の多くの問いを解いて(解かされて?)きましたよね。学校では教師が問いを立て、生徒・学生がそれを解きます。しかし基本的には、だれが問いを立ててもよいし、だれが答えても/答えなくてもいいはずです。

23歳のとき、数学科から哲学科へ学士編入学しました。学期末試験が近づいたので、講義で学んだことを整理して、試験に臨みました。ところが問題用紙には、「自分で問いを立て、自分で解答しなさい」と書かれていました。数学科では、教員が立てた問いを学生が解いていました。「哲学というものは、自分で問いを立てるところから始まるんだ!」と、興奮したことを覚えています。この例に示されるように、問いは、だれが立ててもいいのです。

また問いは、だれが答えても/答えなくてもいい。たとえば「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足。これは何か?」というスフィンクスの謎かけがあります。この問いに答えられない者は殺され、食べられてしまいますが、遠まわりの労を惜しまなければ、問いを避けて通る道もあるのです。

答えても/答えなくてもいいのに、二人、ないしそれ以上の人たちがあえて問いの前に立ち、それに答えようと探求を始める。相手が変われば、メンバーが異なれば、着眼やアプローチが違ってくる。まったく別の対話が生み出される。参加者一人ひとりの物の見方はその都度、変化していくから、今、ここで試みられる対話は、人類の歴史のなかで、いや、宇宙の歩みにおいて、1回かぎりの出来事といってよい。参加者の一つひとつの言葉(logos)を通して(dia)、対話(dialogue)は進められるのです。

問いが立てられるプロセスは多様です。Aさんの悩みをBさんが受けとめているうちに、問いが立つこともある。Aさんの問いをBさんが共に引き受けるケースもあります。わたしが主宰してきた哲学カフェや死生学カフェでは、参加者全員で次回の対話を導く問いを立てます。

草地の鳥と同様、いや、おそらくそれ以上に、わたしたちは、実に多くのことを気にかけ、様々な物事に関心をよせています。関心がむけられるところには、驚きが生まれます。驚きとともに、問いが芽生えます。「すべてのことはメッセージ」とユーミン(松任谷由実)も歌います。世界は、宇宙は、問いに満ちています。わたしたちは、それを拾い上げるだけでいいのです。

「知らない」からこそ問いが生まれ、探求が始まります。探求するから、他者の言葉に耳を傾けます。「知らない」ことについての対話は、探求的な対話になります。

●なによりも言葉を大切にする

看護学校で非常勤講師を始めてから、早いもので16年になります。看護学校の授業も、すべて対話形式で進めています。看護学生とともに対話を試みる場合、言葉を大切にするという基本姿勢から確認します。看護学校の教育カリキュラムでは、非言語的なコミュニケーション(nonverbal communication)の意義が強調されるからです。

わたしたちは身をもって生きています。だからこそ相手の身になって、「思い」を汲むことができる。表情や所作などから、相手の「思い」を察することができる。病気や高齢のゆえ、「思い」を言葉にすることが難しい場合、聴き手が察してくれれば、大変ありがたい。このような場合、話者の「思い」に注意を傾けて聴くことは、大きな意義をもつでしょう。

看護師は主に病者や高齢者とかかわります。それに応じて看護学校では、非言語的なコミュニケーションの意義が強調されるのでしょう。相手が発した言葉を額面通りに受けとめるだけでは十分ではない。「言葉を聴く」ことは、「思いを察する」ことに補完されて、初めて完成するというわけです。

たしかに身体や精神の状態であれば、相手と自分の共通性を支えに、「察する」ことが可能かもしれません。しかし相手は、自分と異なった時代と場所で生き、異なった経験や生活背景から、現在の「生」を築き上げてきたはずです。その「思い」を察することなど、本当にできるのか。

「できる」と想定するとき、相手の複雑な「思い」を合理的に、都合よく解釈してしまう危険が生まれます。そこでは無自覚なまま、むしろ「善意」に基づいて、当事者の「思い」が勝手に読みこまれてしまいます。それとともに相手の「言葉」は、素通りされてしまいます。

対話は、相手と自分の一つひとつの言葉(発言)を通して進められます。相手の言葉を欠いて、対話は成立しません。言葉が発せられるまで、待たなければならないこともあるでしょう。沈黙を恐れてはなりません。それは言葉が実るのに必要な時間です。わたしは看護学校の授業で、15分間ほど待ったことがあります。

「思い」を察すること、一見したところそれは親切な行為に見えます。しかし見方を変えれば、それは自分の思いを自ら言葉にする機会を相手から奪うことを意味します。予断や思いこみも、対話の大敵です。いつもと同じことを言っているように見えて、よく注意して聴くと、前回と少し違うことが語られている。そんなことがしばしばあります。「あの人はこういう人だから」という見立ても、相手の言葉を聞き逃す一因です。

今、ここで、相手が発する言葉をそのまま受けとるためには、細心の注意が求められます。一語一句に集中して聞く、つまり「聴く」とき、聴き手としての自分の先入観や前提が打ち破られることがあります。それまでの見立てが修正を余儀なくされ、問いそのものとそこにいたる道筋が新たに見えてきます。なによりも、どこまでも言葉を大切にする。そこに初めて対話が生まれる。わたしはこのように考えています。

●共通の問いを前に、共に立ち、聴き、考え、語る

前便で稚子さんは、「聞く」と「聴く」の違いを説明し、そのうえで「聞く」を用いる理由を提示してくださいました。ところがわたしは、その説明と理由をよく理解できませんでした。とはいえ冒頭から疑問ばかり書き連ねれば、公開質問状か論文添削のようになってしまう。それは往復書簡にふさわしくないと考え、今回はこのようなスタイルで書きました。最後に、わたしの抱いた疑問を紹介し、本便の趣旨を明らかにしておこうと思います。

ひとつには、「聞く」と「聴く」を稚子さんがどのように区別されているのか、よくつかめませんでした。国語辞典を引いても、両語の区別が判然としないので、『日本語国語大辞典』にあたりましたが、明確な使い分けは見られませんでした。言葉の成り立ちとしては、「きく」というヤマトコトバに、複数の漢字をあてがったのでしょう。両語を明確に区別するには、「聞」と「聴」という漢字の成り立ちを踏まえた方がよさそうです。

それはともかく、稚子さんの使い分けは、次のように整理されるでしょうか。「聴く」の対象は言葉に限られる。対して「聞く」の対象は、音や声など非言語的なものにも及ぶ。ここで「非言語的なもの」には、「言葉として形作られる前の音や声」とともに、参加者から発せられる「空気」や「気配」のようなものが含まれる。

次のように整理しても構わないでしょうか。「聴く」がもっぱら言語的であるのに対して、「聞く」は非言語的な領域もカバーする。その場合、稚子さんは対話のうちに、非言語的コミュニケーションを含めていることになりますね。しかも「聞く」の対象に「空気」や「気配」を含めるのですから、非言語的なもの(「空気」や「気配」)を「察する」ことや「読みとる」ことを重視されているということになりそうです。

もうひとつ、「聞く」と「聴く」の区別は、「注意して」にあるはずです。「聞く」には、「聞こえる」という表現によって表されるように、自然体というか、どこか受け身の構えがある。それに対して「聴く」は能動的な構えを要する。英語でいえば、’hear’ と‘listen’の違いに相当するのではないでしょうか。

まとめましょう。稚子さんは、対話における非言語的な要素を重視される。しかし「聴く」ことを彩る「注意深さ」には目をむけられない。どのような「対話」がそこから生まれるのでしょうか?わたしが理解し実践している「対話」とは、だいぶ異なったものになりそうです。お手紙の後半には、「情報」という表現が登場します。しかし「情報」という発想は、「対話」の姿勢と相容れないのではないでしょうか。必要なことは、本人が自ら言葉にする。それを信じて待つ、そして本人が言葉にしたことだけを聴く。「対話」にふさわしい姿勢とはこのようなものだと、わたしは考えています。

お手紙の前半では、「同じ問いに向き合っている」ことを確認していただきましたが、後半で「聞く」ことを説明される段になると、「問い」がすっぽり抜け落ち、それに応じて「問い」、「あなた」、「わたし」の三者関係が「あなた」と「わたし」の二者関係にすり替わっているという印象を受けました。前半と後半の内容にギャップを見出したため、全体としてどのように受けとめたらよいか、よくわかりませんでした。

「対等である」ことに進む前に、以上のわたしの疑問に答えていただけないでしょうか。今後の対話を導く新しい問いがそこから生まれることを期待しています。長くなりました。お返事を楽しみにしています。

追伸 

きっとお気づきのことでしょう。「一般にはあまりなじみいがない」というご指摘を受けて、今回は「探究」ではなく「探求」と表記しました。今回の用例では、「探求」と「探究」を特に区別しなくても済んだのです。しかし、たとえば「死」が主題になると、「探求」と「探究」の使い分けが必要になります。わたしたちは、「死」を「探(さが)し求める」ためではなく、「死」について「探(さぐ)り究(きわ)める」ために、対話するのでしょうから。



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