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【小説】ひさしからずや夢の如し 四

 F,クープラン『葦』――何故、他の人達は、昔夢に描いた未来とずれて、全然違ったものに変わってしまっても、自分の人生に上手いこと折り合いを付けられるのだろう。漠然とした不満や理由のある不安を視界の外に押しやり、一日単位で充足感を得ればどうして満たされるの。私は今のこの生活を長くキープしたいと思っています。けれども同時に、ふとした時に訳もなく、ここが私の本当の居場所ではない気がするのです。夫と話していても誰と仲良くしても、ずっと、いつもこの体の内側の、胸の谷間の奥の底が渇いている。焦っている。私最近白髪が目立つようになりました。後はもうこのままただ年を取って、にこにことしたお婆ちゃんになるだけ?……いけない。しまった。今日は夫の帰りが遅い日でした。ほらやっぱり買い過ぎたんだ。私一人の部屋に私の曲が響きます。キッチンの窓を開けたままにしておいたので、明日になったら隣の婆が偉そうに文句を言いに来るかも知れません、普段は耳が遠いくせに。こっちこそ初めからお前なんかに聴かせるつもりはない。ずっと放ったらかしていた為ピアノのピッチが狂っています。僅かに音が下がっています。私には聞こえてしまう。気持ちが悪い。それでも構わず弾き続けますだって、ほらこんなに上手いの。私上手いんですよ、気付いて、誰か気付いて、そしてもっと聴いてほら、踏み締めたペダルが軋みます。
 
「ああこんな筈じゃなかった」

 あんた、いつまでおそろしがっちょるん。
 
 ――佳奈

 ふと、名前を呼ばれた気がしました。
 私は指を止め、顔を上げると、部屋はすっかり宵闇に満ちています。外を歩く人の声かな、そう思い耳をそばだててみましたが聞こえません。静かです。何ひとつ聞こえません。話し声は勿論のこと、通りを行き交う車の音も、暮時にぶり返して雨戸を揺らす春の突風すら、何故だか今はぴたりと止んでいます。水を打ったようにしんとした部屋の中で聞こえるのは自分の耳鳴りだけ。うなじに悪寒が走って体がぶるりと震えました。いけないいけない、夢中で演奏していたからつい気付かなくって、部屋着のワンピースとハイソックスだけではそろそろ肌寒くもなりますよね、もう一枚着るついでに軽く食べようかな、私はわざと明るく「よいしょ」と声に出し、立ち上がった時に目が影を認めました。
 居間の背後の角、カーテンと消えたフロアランプの間にぼうっと、人の形の影を。
 血が落下してふわりと産毛が逆立ち、思わず叫ぼうとしましたが声が出ません。頬骨の辺りの皮膚が引き攣れ喉は強張り、手も足も全身が突っ張ってしまって動けない。私は眉を吊り上げ目玉を剥き、棒立ちのまま部屋の角を凝視しています。なんで?どうして?玄関はチェーンロックを掛けた、間違いない確認した、サッシだってほら見て閉まってる。仄かに浮かぶ白い壁紙に夜の微粒子が蠢いて飛び、影の輪郭を散ってしまって判然としません。キッチンの窓。嘘でしょあそこは格子が付いてる、あんな隙間誰が入れるの?
 
 佳奈

「嫌だあ!」

 掠れ声を絞って叫んだ拍子に私は床に転倒しました。聞こえた、聞き間違いじゃない、聞こえた、一緒に転がったピアノの椅子が足をぶちましたが構っていられません、私は横倒しになったまま頭を抱え膝を折って身を屈め、目をきつく閉じて悲鳴を上げました。膨張する混乱と恐怖に興奮し、縮こまっていた血が頭に上って体を駆け巡ると声が戻り、拳を握り締めて髪を掴んで泣き喚きました。叫びすぎて脳味噌が沸騰します。一体何故、どうして私がこんな目に、心臓が強く早く脈動し、冷えた体が熱くほてるのに合わせて今度は激しい感情が、私の中にぐつぐつとこみ上げてきました。自分が知る限りの罵詈雑言を叫び散らしました。溜まった憤怒が沸いて間欠泉のように噴き出します。足をばたつかせた拍子に椅子を蹴り上げ、こめかみが破裂する程太く絶叫してしまったら、息が切れ、体中の力が抜けて、もう何も考えられなくなりました。膨らんだ頭がズキズキと痛みます。汗の混じった鼻水をすすると、強い耳鳴りが右と左の鼓膜にぶつかり合って頭骨の中で反響し、不快な尾を引きながら遠ざかっていきます。重い腕で濡れた顔をどうにか拭い、腫れぼったい瞼を少し開けると、目が暗闇に馴染んでいました。私はそっと辺りを見回してみました。
 影は足元に立っています。動かないでじっと、そして横を向いています。腕をピアノに向かって伸ばしている。鍵盤を触っているのでしょうか、私は思わず顔を上げ、もっとよく確認しようとしました。すると影はゆっくりと身体をこちらに向けました。
 歪な形をしています。人影と呼ぶには余りにも、余りにも異様な姿です。
体の輪郭には首や肩の凹みがありません。頭部はまるで山が聳えたような、幅の広い大きな三角形で、黒い裾野の両端から浮腫んだ腕が伸び、胴体はずんぐりと太く、奇妙な巨躯を支える足は不釣り合いに細くて短いものですから、恐ろしいに違いはないのですけれど、ちょっと可笑しくなって来ました。多分私は夢を見ています。だってこんなのありえない。私はいつから夢を見ていたのでしょう、いつから眠っていたのか。
 水溜まりを踏みしめたときの、重く濡れた足音が、音のない部屋に響きました。横たわった私の体に振動が伝わります。一歩、また一歩近付いてきます。これを走馬灯を呼ぶのでしょうか、私の人生のワンシーンを砕いて万華鏡にしてみると、思いのほか綺麗で、ああこんな筈じゃなかったという苦しさがまた込み上げます。おかしい。私にはやりたかったことが一杯ある筈、なのにもう駄目だなんて。溜まった涙が耳朶に垂れたとき、物が割れる音がして床が光りました。携帯です。服のポケットから転がり落ちた携帯を、黒い化け物が踏んだのです。すると化け物は低く呻いて体を反らせ、身を捩ってもがき、私の上に倒れ込みました。夜よりも暗い毛糸が解けるように、墨が滲んで溶けるように、私を覆う影の塊が崩れ始めると、サッシの窓に映った景色が目の前に広がりました。

 窓の中桟の地平線から、月が昇っています。縦にも横にも幅を取った居間の二枚組のサッシの、鍵の下りた召し合わせ框を跨いで両横一杯に、上は上桟に見切れて丁度十三夜を寝かしたような、巨大な、そしてやけに赤い満月が、夜の硝子のスクリーンに張り付いています。朧な月の光は次第にゆらゆらと柔らかく波打つヴェールとなって、辺り一面に広がり、床に倒れた私の元にも降り注ぎました。背後から月光を浴びた怪物が、とろみのある薄赤い空間に黒い湯気を揺らめかせ、みじろぎもせぬままみるみる揮発していきます。鼻が詰まっていたってわかる強い異臭にえずきながらも私は、この時「助かった」と直感しました。ふっと力が抜けて気を失いそうになるのを堪え(いいえもしかすると、ほんの僅かな時間意識を手放したかも知れませんが)、ラグマットの隅で涙と鼻水をぬぐい、目を覚ます為に重たい体を何とか仰向けに転がしました。


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