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【小説】ひさしからずや夢の如し 五(終章)

 西の窓辺の花瓶の、開き過ぎた花が子房の奥まで色付いています。 
 私、どうかしていました。今まで本当にちょっと私、どうかしていたんですよ、だって、化け物だとか怪物だとかそんなものが、この世にいると思います?
 幽霊の正体見たりなんとやら。あんなに怖かった影の形の正体は鎧兜でした。ええ鎧と兜。甲冑です。甲冑のシルエットに私はただただ怯えていたんです。訳もなく、一人で叫んで。「食われるんじゃないか」だなんて彼に。ええ、彼です。彼は倒れる瞬間膝を付き、四つん這いの姿勢になって私を庇いました。多分きっと、鎧が私を傷付けないよう庇ったのです。
 すらりと伸びた両腕。高い位置からすっと通った鼻筋や、肉厚で口角の上がった唇、筋肉の締まった首に浮き出た筋や喉仏も、着物の襟から覗く彫りの深い鎖骨も、どれもが凛々しくてとても綺麗です。精悍な彼が身に着けた鎧兜もまた、月華に艶めく兜の吹返しの、金糸銀糸が織り成す文様が愛らしいこのホワイトゴールドの生地は、彼が鎧の下に身に纏った着物と揃いの物。甲冑の材質はきっと厚い皮や鉄板なのでしょけれど、無骨な基礎に漆工と金工と織物の技を細部にまで存分に張り巡らせ、絢爛な装飾を幾重にも重ねて作り上げられた、それはそれは美しい物です。
 被った兜が脱げない為かしら、蘇芳(すおう)の組紐が顔の輪郭をなぞり顎の下で縛ってあって、これが一層くっと引き締まった男性らしい骨格と、相反する肌の蒼みがかった白さを際立たせます。ただ目元は兜の庇のせいか陰ってしまって、分かりません。
 私の髪はきっとぼさぼさです。顔だって泣いて汚れてつっぱっています。恥かしくなって、膝の上までずり上がったワンピースの裾を直すと、彼の左肩にあしらわれた、組紐と揃いのタッセルの、柔らかそうな先端の繊維が私のうなじに触れそうで、触れずに揺れるので、くすぐったくなって堪らずいっそ体を起こしてみたくなりました。彼は許さず片手で私を押し戻し、そして長い人差し指の腹を、私の喉元の窪みに当てたのです。
 彼は太刀を帯びていません。刀は武士にとって大切な物なんだと思います。さっき体を起こしたとき、この部屋のどこに彼が太刀を置いたのかが分かりました。私は彼を見つめています。彼は唾をのんだ私の喉元の、鎖骨の繋ぎ目と胸骨の頭を指で探るようになぞると、指先を鉤の字に曲げました。熱い疼痛に私が「嫌」と言っても構わず彼は、そのまま一気に皮膚を裂きました。胸の上から下腹まで縦に、瞬時に、ボタンのホックが弾けて開いた衝撃に私の体は弓なりに反り返ります。彼は兜に良く収まったその若い顔の鼻の先が、私のあらわになった中身にくっ付く程近付けて覗き込み、慌てる私の臓腑と臓腑の間をまさぐり始めました。破裂しそうな心臓をソフトなタッチで持ち上げるから益々あたふたとして、投げ出した足を捩って歯を食いしばり、力を籠めると余計に身体が火照って全身の神経が開いてしまう。くちゃくちゃと湿った音がします。

「ねえやめて、やめて」

 濡れそぼった足音を立てていたのは彼なのに、今濡れているのは私です。肋骨をタッセルが撫でたので喘いで彼を押し戻しましたが、尚も彼は乱れて絡まった神経の配線を追い、私を形成するはらわたを掻き分け、そうして探り当てた私の肉のスイッチを指先で摘みました。電流が脳味噌を走ります。何て冷たい指なの。どうしてこんなに凍えているの。
 彼がその上唇を舌の先で舐めました。続けてもう片手を肘まで突っ込み、とうとう痺れたひだの底に隠れていたしこりを掴みました。
 月日の数だけ折り重なった細胞の防壁に覆われて沈み、血と沈殿物が混ざり合いながら根を張ったしこり。少しの刺激にも揺り起こされ、もっと水をくれとせがむ瘤(こぶ)。彼は私自身気付いていなかった私を嗅ぎ分け、表皮を捲りあげて中身を剥き出しにしました。彼だけが私の秘所を暴いたのです。いよいよです。
 一掴みで根こそぎもがれた私のしこりを彼の掌が潰しながら吸い取る、この衝撃と忘我の悦びは――。
 

 聞こえる。誰かが歌を歌っている。懐かしいにおい。
 抉られて発熱する苗床にどくどくと新しい血液が流れ込み、満たされて切ない余韻に浮遊する、私がひくつきながらつぼんでいきます。彼が体を起こしました。私はまだ恍惚として、彼の吐息に触れただけで敏感に応えられるのに、彼は息をしていないものですから私が苦しくなって、思わず抱き寄せました。防具で固めた腕が私を振り払おうとします。さっきまで嵌めていなかった。私は無我夢中で抱き締めました。腕の内側や掌が擦れ、唇が当たって鉄の味がします。立派で美しいとばかり思っていた甲冑が本当は、何処もかしこも傷だらけな為です。厚い革は裂け、黒い鉄板は錆び付き、肩や胴の赤や白の縅毛はほつれて毛羽立って、泥のような染みが濃く滲んでいます。
 兜もこんなに歪んでしまって。可哀想になった私は自分から手を放しました。そのとき、彼の隠れていた目元が少し見えた気がしました。
 ぽっかりと抜け落ちた二つの眼窩の、常しえに続く晦冥な洞穴の入り口の際に、淡く光る薄い棘が刺さっています。磨かれた象牙に似た柔らかな乳白色の、一粒のしずく程の小さな破片。
 私は知りたくなりました。

「あなたは何故こんなにも悲しい目をしているの」

 瞬間、破裂音を立てて開いたサッシから吹き込んだ突風が、赤い月を切り裂き居間の壁に当たり、あっという間に渦を巻いて立ち昇りました。液状に零れ落ちる月を呑み込み、カーテンもフロアランプも巻き上げて天井を高く押し上げます。私は波打つ床板にしがみついて悲鳴を上げましたが、竜巻は私の声を吹き飛ばし、ごうごうと轟いて彼を包み込みました。
 私があなたを可哀想に感じたとして、でも馬鹿にした訳ではないの。誤解しないで、誤解しないで私は、ただ知りたかっただけ。知りたいだけなの本当のことを。あなたは、来てくれたのでしょう?なのに、どうすれば良かった?私はどうしてあげれば一番良かった?
 ……ふと気が付くと、私は一人床にしゃがんでいます。風に巻かれて滅茶苦茶になったと思った部屋は、浴室から出たときの光景のまま。カーテンやフロアランプやテーブルのリモコンも、ピアノの椅子の位置だって、何一つ変わっていません。私の部屋着のワンピースも。けれどぱっくりと開いた私はまだ奥のほうが充血していて、無かったことには出来ないのに、もう触れないつもりなら、また閉じるしかありません。
 日常の続きが始まります。
 彼は消える前に、切れ長の二重を縁取ったあの長い睫毛をそっと伏せ、ただ彼の答えだけを聞きたい私を見つめ返しました。唇が動いたので答えてくれたのでしょうか。それともまた私の名前を呼んだのかも知れませんが、同時に彼は私の耳を引き千切ったのですから聞こえませんでした。
 ぶつりと音を立てたくせに、少しも痛くはしませんでした。

「あー、ほんといつまで寝てんだよもう」
 
 夫が慌ただしく動き回っています。目を閉じていても眩しい光の中もう一度まどろみ、重い瞼を開けて髪をかき上げると、私の体に毛布が掛かっています。夜が明けています。私は眠っていたようです。この毛布は私が掛けたのかしら、何も思い出せない。ソファーに座って欠伸をしてぼうっとしていると、玄関先で夫がまたこちらに向かって喋っています。

「じゃあ俺もう行かなきゃだから。でも大丈夫?ママさあ、最近何かちょっとおかしいよ?」

 夫の声は聞こえません。ドアに鍵を掛ける音は勿論、隣の雑音も信号の歪んだメロディも、通学路を行く小学生のさえずりや、道路を擦る車列の単調なタイヤの音ですら一切。

「うん、ごめんねえ、じゃあね。行ってらっしゃい」

 私は夫を笑顔で送り出しました。次に毛布を畳んでソファーを整え、二階のベッドに毛布を閉まって服を着替えます。一階に下りて脱いだ物を洗濯機に入れたらスイッチON、続けてシンクに置いてあった、総菜と冷凍パスタの器を洗ってから片付けます。マグカップやビールの缶やフォークは洗ってあったので良しとしましょう。さて珈琲を淹れてまずは一杯。そうだ、今日から朝ご飯も食べないでおこう、私、昔から体重はさほど増えていないんですよ、歩いていますし。なのに年々下の方におにくが溜まって、重力に負けちゃって、恥ずかしい!……今更だけど。ふふ。
 今日も気温が高くなりそう。見渡す限りの青い空、でもやっぱりベランダに出ると空気が粉っぽく感じられます。これでも昨日よりは指数が良いと天気予報が言っていました。だったら今日は洗濯物を屋根の下の辺りに干してみようかしら、そしてピアノを弾こう。私はピアノを弾かなければなりません。これからもっと沢山弾いて、もっともっと上手くなりたい。音もテンポも外れていたって大丈夫。もう気になりません。だって私には耳がないのだから。
 耳朶の暗い二つの洞窟の、坂を上った突き当りに轟いているのは激浪。渦を巻き叩きつけ、寄せては遠く何処かへと返します。
 午後には買い物に出ますが、たとえスーパーの中でだって私の変化に気付く人はいないでしょう。川べりの死骸に気が付いて、手を伸べる人がいないように。


 私は待っています。




〈完〉

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