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【小説】ひさしからずや夢の如し 三

 ショパン『ワルツ第十番』――中級のバイエルに載っていた曲を、先生に教わる前から自宅で弾いていました。誰かが練習していたのを聞いている内に耳が覚えたのです。でもあの頃はレッスンの内容を頭で反芻し、音符を目で確認しながら指を動かしていました。大人になれば迷わず好きに弾けます。先程も触れたように、家は通り沿いの角にあるぶん他のお宅に比べれば敷地に幅があり、塀もしっかりとしていますから、音が漏れて五月蝿いと言われる心配はありません。いちいち文句を付けるのは、隣の林さん位のものですね。
 ここに居を構えた時分はお隣さん達とも親しくしました。新婚だった私達と、既に幼稚園に通うお子さんがいた共働きのご家族、そして所謂「終の家」を求めて越してきた林さん夫婦。回覧板を持って行ったつもりが、随分長話をしていたなんてこともしょっちゅうで。だから特に何かあったという訳でもないんです。自然の成り行きでしょうか、生活の時間帯からして重ならない余所様との付き合いは、何とはなしに消散しました。SNSでは毎日話す相手がいます。自慢ではありませんが、何年もの付き合いになる人ばかりで、相手から誘われて入ったチャットだって沢山あります。実際に会った人は僅かですけれど、出会いを求めているのでもあるまいし、お互い息抜きに丁度良い関係性だと思います。元々私はどんな場所でも、すんなりと交流の輪に入れてもらえる性で、パート先の仲間や子供のクラスメートの母親達ともすぐに打ち解け、その場その場で楽しく付き合いました。こういっちゃ何ですがどこにでも仲間外れになるタイプ、いますよね。でもそうした人にも私は優しくしようと常に心掛けていますし。
 短大の友達からは今でも年賀状が届きます。ある年から彼女の住所と苗字が変わっていました。葉書に印刷されたHappy New Yearの文字とイラストの下に「離婚しました。まだまだ大変だけど、前向きに!自由に!今年は笑顔の年にしたい」としたためてありました。葉書の余白に水性ボールペンで書いてあってもやはり綺麗な字です。昔と変わりません。修正液で消した箇所に残ったインクの塊が擦れ、葉書を少し汚していました。
 離婚なんて簡単には済みません。紙に記入して印鑑を押せばはいお仕舞い、後の諸々は追い追い……そんな例は稀なんじゃないですか。まして子供を産み育ててから「したい」と思い付いたのであれば猶の事、男親と女親の溝に逆巻く愛憎の渦に子供を引っ張り込み、金と時間と神経を磨り減らした末に終わりに出来る、労力を削がれる手続きです。
 私の夫は煙草を吸わず、ギャンブルは勿論ネットに過度な課金だってしません。田舎の男ですが、遅くなる日だけではなく帰る前にいつもLINEをくれる、良い人です。夫の会社の伝手で購入した新築の二階建て。建売りでもあたたかなデザインは見栄えがします。日当たりの良いベランダ、広すぎず狭くもない青芝の庭にはガレージだって付いていて、住宅ローンの返済はまだ残っていますよ、私の頭の隅にはいつもローンの存在が居座っていますが、実際には生活に困る程の金額でもありません。私には何も問題はありません。隣がこちらに一言の断りもなく、家の庭と隣の敷地を仕切る鉄製の柵いっぱいに、二メートルはある格子状の木製ラティスを結束バンドで縛って取り付け、花も草も蔓花もごちゃごちゃに植えた大小のプランターを出鱈目に吊したことも、黙って呑み込み、気にせず、我慢さえすれば。
 バダジェフスカ『乙女の祈り』――いつだったか聴いて以来、私もピアノで奏でてみたいと思った曲です。耳朶に残ったメロディーを頼りにサビの部分を練習しました。大人になって楽譜を手に入れると繰り返し弾きましてね。ですから譜面が陰る仄暗い中でも指を運べます。夢中になって喉が渇きました。でも走る指の勢いに任せてもう少し、このまま弾いていたい。
 何もかもが思い通りにいっていない訳ではないのです。世間一般のヒエラルキーに当て嵌めて見れば、私はきっと幸せな人の階層にいる筈です。

「上手い上手い!佳奈はよいよ何でも出来る」

 父が私にくれたピアノ。

「佳奈には才能があるんじゃのんた」

 私は昔一度だけ、沿岸の街に住んだことがあります。
 高台のマンションに当たる風はいつも瑞々しい潮の香りを運び……母は洗濯物が生臭くなる気がすると言って嫌いましたが、広大な紺碧のパノラマを一望出来たあのベランダは、どれ程月日が経とうとも鮮烈に思い出されます。
 まだ小さかった私を抱き上げ広い広い、煌めく海原を見せてくれた人。遥か遠く何処までも続く水平線は、海が陸と陸を区切る為のものなのではなく、此処ではない何処かへと繋げてくれるものなのだと私に教えてくれました。
 ベランダの手摺壁のずっと向こう、坂を帯びて建ち並ぶ家々の甍や工場の屋根が、朝方の新鮮な日差しをきらきらと反射して、時折走るミニカーのような車や、散歩の途中の犬は赤蟻程の小ささで、名刺程の畑の隅っこに立っていたのは確か柘榴でした。お盆の頃に近くを散歩すると、もう実が育ち始めていましてね。人間で言えば腰の辺りをくねらせるように一度曲がって伸びた細い幹から、黒い枝が扇を開いた形に広がっており、そこから毛細血管みたいに張り巡らされた小枝にはみっしりと葉が生い茂っていました。枝の先には丸い蕾のような柘榴がたわわに実っていたのを覚えています。そうそう明るい景色の端っこには雑木林があって……柘榴の畑の半分もない土地に樹木や竹が重なり合い、トンネルを作っているんです。奥には首塚があるよと死んだ祖母が言っていました。ベランダから絶景を堪能するときこの雑木林を見てしまったら、目を閉じて三秒数えます。これでセーフ。ふふ、何もかも楽しかった。
 長閑な町並みの坂を下るごとに景色は都会へと変貌します。海沿いに遊園地があったんですよ、その他にも、海と歴史と橋をテーマにした商業施設が建ち並んでいました。砂浜をずっと埋め立てた駐車場があったんですが、特に夏場は車が余白なく停まっていたものです。

「あっちを見てごらん。ほら」

 青空高く白い帆を張った吊り橋が眩しく輝いています。でも私は、私を軽く宙に浮かせてからまた強く抱き寄せた腕の、盛り上がった筋肉と血管の脈動が不思議で、そして何だかくすぐったくて、わざと余所見をしたりおどけたりしました。あの腕は誰のものだったのでしょう、親戚のお兄ちゃん?それとも父でしょうか。

「ほら佳奈」

 私の父は昭和の働く営業マンでした。残業は当たり前、稀に早く帰れそうな日は飲みニケーションに時間を充てる。長い時間働くことが美徳とされた時代ですもの、毎日私が眠ってから家に帰って来る、そんな人でした。休日も何かしら用事で出ていきましたが、一日中家に居る日はいつも私の遊び相手になってくれました。私を膝に乗せて抱き締め、沢山お喋りをし、あちこち連れ歩いては素敵な物を買ってくれる……私が欲しいと言った玩具や有名なブランドのワンピース、ホテルのランチやテーブルが回らないお寿司。母にもたまにプレゼントをしていました。母は財布の紐が緩い、無駄遣いをしないで、子供を甘やかし過ぎないでと父を叱っていましたが、母が父を愛していたからこそなんですよね。私も母も父が居るとはしゃいでいました。

「のう、もっとじゃ。もっと佳奈のピアノが聴きたい」

 ある日の夜。お日様の光をたっぷりと含んだ柔らかな毛布に包まれ、ぬくぬくと夢見心地でいた私は女の金切り声に叩き起こされました。そっと襖を開けて覗いてみると、母が怒鳴っています。泣きながら捲し立てる母の罵詈雑言の向こうから、父の声も聞こえました。母の誤解を解こうと頑張っている様子でしたが、言葉は次第に怒気を帯び、家に二人の口論ばかりが散らかるようになりました。洗濯機に詰まった汚れ物や、ぬめったシンク、鍵を開けたままの玄関のドアにも母の叫びが刺さっています。私は襖を閉めて、布団に潜り両耳を掌で塞ぎながら、声を殺して涙を零したり、お母さん大人なのに泣くんだと他人事のようにぼんやり思う等して事の終りを待ちました。
 遠く輝く海の見えたあのベランダの、サッシ窓の下半分は曇り硝子でした。私はピアノの練習をしながら何気ないふりをして窓を眺めています。でも幾ら目を凝らしても、冷たいアルミの中桟の上から見えたのは冬の空だけ。父は帰って来ませんでした。

「お前はお父さんみたいな人になっちゃおえんよ」

 この後私の演奏の腕は上達しました。母が隣町の工場の事務員になり、私は所謂鍵っ子になって、家で一人黙々とピアノを弾いていた為です。少し落ち着いてから母の実家に引っ越しました。そして中学に入ったのを機に私は、外交的な少女に変貌しました。友達が増え、恋愛を知り、かと言って勉強を放ったらしにはしたくなかった。一学年の生徒の成績を上中下に分けると、私の成績は上位に区分されたでしょうし、学校行事にもそこそこ真面目に参加しましたから、先生方の受けは良かったと思います。高校は晴れて志望校に進学し、大学は金銭的な理由から短大を選んだものの、私にとって学生生活は総じてとても楽しいものでした。
 引っ越しの際、捨てずに持ってきた大事な筈のピアノは、私のコートを掛け小物を置いておく家具に変わりました。




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