酒と病と父と私
現在、私に父はいない。2010年の夏に食道がんを患いこの世を去った。父は若い頃からよく酒を飲み、泥酔して帰宅する度に母に怒られていた。私が思い出す父は、酔っぱらいの姿と母と言い争っている場面ばかりだ。父は煙草も好んだ。酒に酔い、着替えることなく酒と煙草の息を吐き出しながらだらしなくソファで眠りこける。そんな父を子供ながらに冷ややかに見ていた。決して体を大事にする人間ではなかった。片田舎の薄汚い酒場に寄って帰るのが父の日課だった。なぜあんな不衛生な上にサービスが良いわけでも料理が美味しい訳でも、美人のママがいる訳でもないない店を好んで通っていたのか理解に苦しむ。そのことは母を不愉快にさせた大きな要因の一つでもある。母はそれがよほど嫌だったようで、死んで三年余りたった未だにその話題を持ち出しては苦々しくこぼす。
そんな父の生前の仕事は、信じられないかも知れないが教師だった。よく酒臭い体臭を放ちながら、児童を前に教壇に立てるものだと思っていた。父と同じ学校に通っていなくて良かった、と心底思った。しかし、そんなだらしない父は校長になった。地元の小学校の校長として教職生活を終えたのだ。あの酔っ払いの父がだ。あんな父ではあったが、校長を勤め上げたことを娘として嬉しく思ってない訳ではない。むしろ誇らしく思う。酒好きで夫婦喧嘩ばかりだったが、あの父で良かった、と思ったことが一つも無かった訳ではない。教師だった父は、勉強で分からないところがあれば飲みながらでもよく教えてくれた。私が不真面目な態度をしようものなら、その時だけは母も父に加担し私を叱った。父は作文も得意だった。中1の時、気まぐれに弁論大会の代表に選ばれてしまい、ひどく困っていた。父は私の書いた拙い作文をきれいにまとめ上げた。おかげで無事大会を乗り切れた。他にも父はピアノが得意だった。初対面の父の印象は最悪だった、という母が父の演奏を聞いた事をきっかけに好感を持てるようになったという。プロになるほどの才能かどうか分からないが、母の勤務していた小さな小学校の校歌を作曲した。だらしないくせにそんな不思議な魅力を時々こぼす人だった。
定年まであと一年という春、勤務中に脳梗塞で病院に運ばれた。命に別状はなく復帰したが、思えばそれが父の大病の始まりだった。退職した翌年、今度は大動脈瘤を発病した。八時間に及ぶ大きな心臓の手術だった。手術は成功したが下半身麻痺という後遺症が残り、そこから車椅子の生活が始まった。その後数年間は落ち着いていたが、再び大動脈瘤が見つかり、二度目の大手術も何とか乗り越えたが、さらに数年後、喉の詰まりを訴えた時には既に食道がんに蝕まれていた。父に三度目の手術に耐える体力は残っていなかった。医者は余命半年を宣告した。医師の診断通り半年後の夏、北海道には珍しい猛暑の日、家族に見守られながら父は逝った。
元気な頃、飲み屋通いで真っ直ぐ家になんて帰らなかった父が、体を悪くしてからやたらと私と姉の帰郷を願っていた。弱くなって初めて家族の温もりを求めたのだ。死ぬ数ヶ月前、父は「生きている間に私の結婚は見られないだろう」と言ったと母から聞いた。自分によく似た、不器用で酒飲みで世渡り下手な私を常々心配し、お金も旦那もない、ないない尽くしの三十路女を不憫に思っていたと。
父はおそらく死期を知っていた。飲んだくれで校長だった父。嫌な話だが私の酔っ払う感じは父のそれととてもよく似ている。いいだけ夫婦喧嘩を見せてきた父。最近母とぶつかると夫婦喧嘩を思い出す。一方的に父が悪いと思っていたが、今は父の言い分が少しは分かる。一度くらい味方になってあげればよかった。確かにこの世に生きていた父は何を残しただろう。私という人間が父の功績のような存在になれればいいと思う。とりあえずこれ以上父に似過ぎないように生きてみよう。
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