水没の街で、愛を問う
「ふざけないでっ、私はアンタ達の私利私欲を肥す為に薬を作っているんじゃないの!」
唇を噛み、そう啖呵を切った彼女の声をきっと僕は一生、忘れない。
*
この季節を迎えられただけでも奇跡だと思いたまえ。
窓の外を散る淡色の花弁を見つめながら、主治医に告げられた言葉だった。
その事実は、毎日僕の病棟にやってくる幼馴染には伏せられた。心優しい彼女は泣きじゃくるだろうからと僕が止めた。動き出した歯車を止める術はもう存在しない。
だからだろうか。彼女はありもしない希望を夢見て、僕に語り続けた。
桜の花を見に行こう
夏は海水浴に
秋は想い出のイチョウ通りを
冬には大きな雪だるまを作ってまた一緒に。
彼女の無邪気さが天使のごとく眩くもあり、また、悪魔のごとく残酷にも思えた。
仕方なかった。彼女ははしゃぎまわっていた頃の僕を知っている。あの頃に戻れるとずっと信じて疑おうとしない。
あの人と再会したのは、そんな彼女に辟易としてきた頃のことだった。
いつまで通えるか分からない学校は、一駅とちょっとの距離の先にあった。本来なら自転車で通える距離も、鎮痛剤で痛みを誤魔化すこの身体には毒だった。その電車にあの人は居た。
すらりとした体躯、シンプルながらもブランドで揃えられた衣服。やや猫背気味なのが残念な程の綺麗な人。表情は暗く、終始俯いていた。車窓の中を流れる美しい風景を一切、見ようともしない。生きながらも、絶望しているみたいだった。
あの叫び虚しく、僕の声は失われた。
僕の存在は認知されていない。けれども、日々似たようなことが続いていたのだろうと容易に想像がついた。
哀しかった。この人が悪いワケじゃないのに。
空っぽの喉に、おもむろに手をあてる。その間にも、取り除ききれなかったウイルスがこの身体を蝕み、更には命をも奪おうとしている。
「どうしたの?」
はっと気づくと、幼馴染の彼女が心配そうに僕の顔を覗き込んだ。なんでもないとかぶりを振る。すると彼女は学生服を着る僕の胸に、一輪の紅い薔薇をさした。
「さっき、通りかかった時に貰ったの。あげるね」
ヴェネツィアの言い伝えが、僕の最期の人生を彩ってくれた。
ガタンゴトンと揺れる電車。
一輪の紅い薔薇を切っ掛けにあの人の視界に入ることを許された僕は、一向に語ることを赦されない。視線を絡め、微笑む。たったそれだけ。
彼女と違ってこの人は僕の心の底に淀む闇を、まごうことなき慈愛で受け止めてくれただろうか。
ガタンと車両に咎められる。電車はホームの横に滑り込もうとしていた。一輪の紅い薔薇で結ばれた二人きりの世界が今日も終わろうとしている。
もう永くはない。また、季節が変わろうとしている。もう次の季節は迎えられないと宣言された。
さよならのかわりに、愛読していた文庫に挟んであった薔薇の栞を掲げる。あの人が顔をあげ、可愛らしく小さく手を振るのを見て、僕はどうしようもなく堪らない気持ちに駆られる。
*
二本の薔薇の花言葉──その意味をあの人が知った時、あの人はどんな顔をするのだろう。その両頬を優しく包んで、額をコツリとあて、それを間近で見ることが出来ないことだけが、僕の唯一の心残りである。
転職活動一発目の面接で心が折れた精神惰弱なわたくしに、こころばかりのサポートいただけると大変嬉しいです。