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つめこまれた想い出は、憧れのリビングに飾られた写真立てのなかに

可愛らしい幼馴染との永遠の恋を捨て、彼は私の手をひき故郷を飛び出した。

高校生の時に使っていたスクールバックに詰められるだけ詰めて、とび色にサビついたママチャリの荷台に紐でくくりつけ、乗り込み、白い息をたなびかせ夜空を駆け抜けたものだから手持ちは心許なかった。

人を見る目に自信はあるから。

根拠も理屈も証拠も存在しないくせに胸を叩いてみせるほど自信満々の彼が連れてきたスポーツマンのような大家は、白い歯を見せながら和室二室とささやかながらのキッチンがある築三十年ものの平屋を紹介してくれた。

元々社宅だったものを企業から買い取ったもので、ベッドタウンであることを加味しても破格の価格。今決めるなら畳と網戸はタダで全部交換してあげるよの一声に、思わず即決はしてしまったけれど。

窓にはカーテンレールすらついて無くて、彼が乗るママチャリとなけなしの手持ちから買った真っ赤な折りたたみ自転車の私とが並走して、近くのホームセンターまで買いに行ったわね。

お風呂はガスで沸かすタイプで慣れない手つきで着火して、沸かしていることを忘れては極限まで熱湯にしてしまって、ジャブジャブ水道水を入れて二人で必死に冷ましたこともあったわ。

老朽化した排水管が壊れて床上浸水騒ぎになった上に、私がちょっとずつ厳選して揃えた調味料が被害に巻き込まれて全部パァになって彼に無意味にあたってしまって険悪に、なぁんてことも。

おまけでついてきた広大な庭も家庭菜園し放題だよと大家はうたっていたけれど、梅雨と夏の日差しのコンボに雑草は伸び放題、蚊も飼い放題で玄関を通るだけであちこちが痒くなって大変だったわ。

けど。

排気ガスだらけの大通りを越えてから一気に閑散とする小道を、ただひたすらに。彼のママチャリと私の折りたたみ自転車とで並走し、時折お互いを気遣うようにチラチラリと見つめ合う、あのささやかなやり取りの時間が好きだった。

砂壁と木柱の間から隙間風が入り放題のなか、和室の真中に置いた一組の布団に身を寄せ合い、手を繋いで眠った時のい草の香りと彼の温もりをずっと私は覚えている。

きらびやかな照明、憧れのリビングルーム、太陽の光が燦々と差し込む吹き抜け。

ファッション雑誌で見た憧れの光景は何ひとつ存在しなかったけれど。近所のスーパーで閉店間際に何重ものシールを貼り付けられ叩き売りされたお惣菜をちゃぶ台にのせて、箸と箸でじゃれあいながらつつきあう彼との時間が何よりも捨てがたい大切な時間だった。

春夏秋冬、喜怒哀楽。

そんな想い出がたくさん詰まった一軒家を私は今一度、見上げる。彼が記念に写真を一枚取ろうかと言うので、くるりと向き直り「そうね」とうなづいた。ブロック塀にセルフタイマーをセットしたカメラを乗せて、彼がこちらに小走りで戻ってくる。私は大きくなりつつあるお腹を愛おしくそっとひと撫でした。

私のお腹の中には新たな命が宿っている。それを風の便りで知った彼の両親から言伝があった。

どうか、近くに戻っておいで──

彼は虫の良い話だと憤慨したけれど、幼い頃に両親を亡くした私は嬉しくて嬉しくてその日の夜、枕を涙で濡らしたのだっけ。

今日、この家と私たちは別れを告げる。彼の両親云々もそうだが、この子が産まれたらあの部屋では手狭だろうから。産院で見かけた、あのふにゃふにゃで柔らかな頬に、虫跡をつけられても困ってしまうもの。

真ん中には愛し子が映るよう彼が私の隣に収まった瞬間シャッター音が鳴り、この家との最後の想い出が刻まれる。


※このお話は、実話をもとにした創作小説です。

転職活動一発目の面接で心が折れた精神惰弱なわたくしに、こころばかりのサポートいただけると大変嬉しいです。