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子育てと私のインナーチャイルド

【薫風を 受けつつ触れる 吾子の背や】


娘が生まれて1年8ヶ月。今日は娘を抱いていると、じっとり汗ばんでくるような日だった。5月の風が気持ち良かった。
半袖を着せて抱っこしながら庭をぷらぷら歩き回っているときに、ふと強く認識させられた。

背骨がある。

いや、これまでも背骨はあった。が、赤ちゃんの頃はもっと肉がのっていた。それがダイレクトに皮膚と骨になっている。

ああ、大きくなったなぁ。


今日は初めて「きいろ」「みどり」が言えるようになった。「あか」「あお」を教えたのはじいじだったが、こちらは夫が教えた。

すごいなぁ。と思うと同時に、私が言うと覚えないのに、と少し悲しくもなった。何度も何度も絵本を読んだり、図鑑を見たり、庭の木や花を見て色の名前や物の名前を教えてきたんだけどな。

そんなことを言っても感じが悪いだけなので、ひたすら喜んだ。

□■□

だが、この喜ぶ、褒めるというのもなかなか難しい。ついつい、子どもを評価する目線で物を言ってしまう。

「モンテッソーリ教育」の中に「子どもを評価してはいけない」、つまり「『すごい』『上手だね!』と言ってはいけない」という教えがある。
熱烈なモンテ教育信者ではないのだけれど、モンテ教育自体は面白いと思うし、取り入れたいと思っているのでゆるゆるやっているが、この「すごい」「上手」という言葉は、どうしてもつい口をついて出てしまう。

多分、自分がそうやって育てられたからだろう。
同じように「ダメ」「ヘタクソ」も言われまくってきたので、失敗することに恐怖感がある。そこを上手く隠そうとするので、最初だけ「できる人」みたいな仮面ができあがってしまい、後々苦労する。

モンテ教育の「評価してはいけない」の本質もそこにあるのだろう。「できたね!」と喜ばれると「次も喜んで欲しい」からと、できないことを恐れるようになる。かもしれない。
あくまでそれは可能性なのだけど、可能性にすぎないから無視していいわけではなく、それならばよりそういう可能性を低めましょう、ということで、評価しない褒め方を研究しているのだろうと思う。

すごくなくていいのだ。上手じゃなくていいのだ。努力の過程を褒めること、事実を認めること(今回の場合は「きいろって言えたね」とか)、それでいいんだ。そして、できなかったけど挑戦したときにもしっかり褒めること。これがなかなかできない。けど、大事なことだ。

と、内省する。

安易な褒め方に逃げてはいけない。


□■□

子育ては、「育てられた」ように「育てて」しまう面がある。自分の体験を参考にしてしまう、ということだ。だから悪い連鎖が起きてしまう。

一方で、子育ては、母親のインナーチャイルドを癒す効果もあるかも、と思っている。自分の子ども時代を客観視して、気をつけて自覚して、何度も繰り返し自省しながらの育児にはなるけれど。

そうやって育てても、やっぱりなんらかの不満を育てられた娘ももつのかもしれないけれど。

それでも私のインナーチャイルドの声に耳をすませて、してほしかったこと、してほしくなかったことを整理しながら育児をしたい。その中で、きっと私自身も成長するだろう。

今のところ1番やめたいのは、私のヒス。

やめさせたいのは、夫の「本当に娘ちゃんはヘタクソだなぁー」の一言。あとうちの親の暴言。相変わらず「ダメな子」「悪い子」「人を困らせる天才」と相手を貶める語彙数がすごい。

そんなばあばの言葉を打ち消せるくらいの子育てがしたい。とりあえず今の目標。



今日はPMSのおかげでスーパーイライラ人になってしまった。どうにかならんもんかね、これ。私も辛いしまわりも辛い。いいことがない。

コントロールできないって辛いよね。と、子どもの不器用さを見守る心境にはなれるかも。



とりあえず今日も1日生きたし、娘も可愛かったし。それで良いことにしよう。


明日はいい日になぁれ。
感謝。

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