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【限界福祉労働者のエッセイ①】表向きシスジェンダーの私が「当事者」であることを考える

2023年7月13日(木)

空咳が止まらない。
熱が出るわけでもなく、喉に強烈な痛みがあるわけでもなく、何の病気でもないのに空咳が出るのはおそらくストレスのせい(だと思う)。
先週から、私は仕事を休んでいる。土曜の出勤日、準備まで済ませたのに玄関で涙が止まらず、無断欠勤したためだ。欠勤の連絡が、始業時間までにできなかった私は、もう色々と限界になったので風邪薬とビールを混ぜこぜに飲み干した。そしてハイなテンションで、たまたまLINEを送ってきた友達にそのまま電話をかけていた――「今何やってるって?仕事休んでビール飲んでる!!!!!!」
私より一回りも年上のその友人は、持ち前のおおらかさ…というか何も考えてなさで、1時間半も酔っ払いの戯言に付き合ってくれた。そして電話が切れた後、朝ごはんも食わずに空きっ腹にアルコールを流し込んでいた私は案の定、凄絶な下痢に苦しめられた。

さて、こんな状態になったのには、一言では表せない様々な「ワケ」とやらが混在している。
私はとある場所で療育の仕事をしている。重複障害児が多い事業所で働く日々は、混乱と刺激に満ち満ちている。その中身だけでも5本くらいブログが書けそうだけど、業務内容に関する話は守秘義務に抵触しそうだから言えないし、仕事の辛さに関する話はまた今度にするとして。
とにかくその事業所は、子どもの人権や障害者の人権に関してはかなり高い意識を持っていて、私としてはそれ目当てで就職したようなものである。つまり、面接力さえ高ければ誰でも働ける公立学校とか、進学塾と化している私立学校とかでは働く気が起きなかったのであり、そもそもサビ残をサビ残と認めない政府に苦しめられている教員になること自体、私の情緒不安定さを考えると現実的ではなかったのだった。なむなむ!
そんなわけで今の仕事先(休職中だけど)に就職した私。しかし、そこで意外な壁にぶつかることになる。そう、ジェンダーにまつわる壁である。

職場内で男女の待遇に差があるとか、女性は出世しにくいとか、男性の育休が取りづらいとか、そういうマクロな話ではない。もっとミクロな、日常レベルでの「ジェンダーに対する意見の相違」である。
この話もどこかで深めたいのだが、私が大学にいた頃は「ペラペラのジェンダー平等」があった。
曲がりなりにも国立大学生、それも私が選んだゼミに入ってくるような癖の強いメンバーとつるんでいたから、当然建前としての「ジェンダー平等」は存在していた。男女関係なく、お互いには敬意を払っていたし、別のゼミでは存在していたらしい「女は最終的に風俗で働けて良いよな~」なんて言うマッチョ男性はいなかった。
もちろん、そんな低次元な議論にとどまらず、ポリコレについてやLGBT法案についても、まともに議論ができるメンバーが男女問わずちゃんといて、そういう学生でゼミの空気を作っていたように思う。上記のようなマッチョ男性も、もしうちのゼミにいれば私と友人と教授とで理詰めのボッコボコにしていたはずである。ちなみにうちのゼミは「右翼とか左翼とか言ってて難しくてなんか怖い」と思われていたゼミである。
この空気の中で、私は「ジェンダー平等」が存在しないことよりも、むしろ男子学生たちの言う「ジェンダー平等」が時々低レベルであること、女性の目から見た世界を意識していない発言などに憤りを感じていた。例えば「賢い女は可愛げがないと言われてきた」と発言した女性に対して、「俺は賢い女性も好きやけどなぁ」「むしろ賢い女性と付き合った方が将来安泰やん(笑)」とか言っちゃう奴らの浅はかさ、それを「ジェンダー平等」と言い張る根性に、苛立ちを隠せなかった。これは本当に嫌いな言葉だけど「それってあなたの感想ですよね?」である。

とはいえ重ねて言うが、建前としてのジェンダー平等は、確かに存在していた。
同性婚や夫婦別姓は「愛し合う個人と個人の決定として認められるべき」であり、女性に対する差別は忌むべきものであり、性的マイノリティへの差別撤廃に関しても熱心であるべきだった。少なくとも私が在籍した2年間は、それがうちのゼミの風土になっていた。

――それが、今はどうだ。
今、私が働いている職場は、建前としてのジェンダー平等どころか、むき出しの偏見と抑圧にまみれている。

「パートナーと二人暮らしです」と言った私に、「パートナーって、彼氏…?」と聞いてくる直属の上司。(確かに私のパートナーはシスジェンダーの男性だが、別に男でも女でもどっちでもなくても何でもいいじゃないか)
籍は入れなくても、事実婚で子どもは産むものだと思い込んでいる主任。(私は家族制度に絶望しているので、正直子どもを持つことは怖いし要らない)
娘に「結婚して孫だけ産んでくれたら、あとは離婚しても大学辞めても何してもいい」と言った話を自慢げに語る事務員と、「やさしいお母さんやな」と返す上司。(それって娘に「産む性であること」だけを期待するってこと?普通に怖くない?)
「子ども産むなら結婚しないと、パパとママの姓が違うって可哀そう~」「でも子どもは産みますよね?絶対産んだ方がいいですよ!!!」と言ってくる同僚。(いや可哀そうってなに。そんなこと赤の他人が思う方が可哀そうだと思わんのか。あとやっぱり私が産みたくない可能性については考えないんだな)

子どもにしてもらいたいことがあるときに、「○○君、かっこいい~」「○○ちゃん、かわいい~」と言っておだてるよう指示する女性保育士。
女の子や女性職員に対してだけ、わざとよろめいて胸を触る障害児の男の子について、「彼も『雄』の顔になってきましたね~」と喜ぶ女性支援員。
「女は生まれたときから女ですよねぇ」とこともなげに話す女性心理士。
「新人もベテランもみんな対等に話す」がモットーの職場で、ただ出しゃばらないように、無難に会議を終わらせようとする女性職員たち。

私は思う。我慢ならない。苦しい。大学時代の、苛立ちを感じる心がもはや麻痺寸前にあることも、同じ女性たちに、抑圧されてきたはずの女性たちに、失望を覚えることも。
「世間ってまだまだそんなもんさ」と、先を行く活動家たちは達観して言うかもしれない。けど私には耐えがたかった。仕事に行けない理由はそれだけじゃないけど、でも理由の一つだった。

そして、考える。
もし私が、何らかの性的マイノリティ当事者だったとして、「そういうの本当に辛いんですけど」と言ったらどうなるか。
うちの職場なら、間違いなく職場環境改善のために動くだろう。私の想いを真摯に受け止め、子どもや障害者の人権にアンテナを高く張っているうちの職場は、新たに「性的マイノリティの視点」を獲得してますます発展していくだろう。
しかし私は今のところ、女性であることから逃れたいだけの、男性パートナーがいるシスジェンダーだ。名乗れる場所では「Xジェンダーです」と言っているが、表向きはどうしようもなくシスジェンダーである。私は、性にまつわる「当たり前」をぶち壊す、分かりやすい当事者にはなれない。だからみんな言うだろう。「気にし過ぎじゃない?」と。

最近一部の女性たちが、執拗にトランス女性を攻撃している。一緒に署名運動までやったことのあるフェミニストの女性が、トランス女性差別に加担している姿を見たとき、私は本当に不思議だった。
私は女であること、女であるがゆえに付きまとう何かから逃れたい。そんな私にとって、性にまつわる「当たり前」を、分かりやすく超えて搔き乱す、トランス女性(だけではないが)はある種の希望の星でもある。もちろん「勝手に希望にされても」とは思われるかもしれない。「お前も頑張れよ!」とは私も思う。それに、私が社会的抑圧によって苦しめられるのと、トランス女性たちが差別によって苦しめられるのとでは、また苦しみの質も違うかもしれない。そろそろ何が言いたいのか分からなくなってきた。
要するに、なんか上手くいってそうな、普通に男性を好きになって男性と同棲したりして、男性と結婚もできちゃうシス女性も、この社会では紛れもなく「当事者」だということ。性的マイノリティに対する差別は対岸の火事などではなく、むしろその大元にシス女性を苦しめる何か(家父長制とか性別二元論とかetc)も存在するということ。「みんなLGBTQ+の人たちに共感しましょうね」じゃなくって、そのLGBTQ+を抑圧する構造と全くおんなじ構造で抑圧されている「当事者」であることをもっと主張していきたいな、という話。
――で、私は、職場では「当事者」であることを認められないまま心身に若干異常をきたし、咳は止まらんしアルコールは毎日摂取しちゃうのでした。なはは。

ちなみに今日は気分転換に散髪しに行って、ツーブロックで後ろも刈り上げてもらった。
いつもどんなオーダーをしても「女性らしいショートにしてみました」的なことをニコニコ言われて、ショートボブにされてばかりだったので、めっちゃ刈り上げて前髪も短く切ってもらえたのが心底嬉しい。耳も全部出てるし。
似合うとか似合わねぇとか可愛くないとかやりすぎとか、そんなんどうでもいいんだわ。今、なりたい自分にならせろ馬鹿野郎。みんな好きに生きてクソみたいなジェンダー規範をぶっ壊そうぜ~!!!まぁ好きに生きるのって難しいけどな!!!私今ほぼニートだし!!!

……と、思うみみみでした。

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