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【元限界福祉労働者のエッセイ①】フェミニスト、結果ブス


※福祉の仕事を辞めたので「元」が付きました。
※最初に断っておくと、「フェミニストってブスだよね」とかいうアホみたいな話は、ここでは全くしません。フェミニストをうがった見方でしか捉えない人には、「そういう人向け」の文章があると思うのでブラウザバック推奨です。


2023年8月17日(木)

K-POPアイドル・MAMAMOOの「HIP」という曲が、ものすごく好きだ。

普段の私は音楽を聴くとき、流しっぱなしにすることが多いのだが、「HIP」を聴くときだけは必ずMVをセットで眺めている。とにかくファサを見たいからだ。
ファサとは、MAMAMOOの最年少メンバーでボーカルラッパーを担当している女性のこと。「HIP」のMVを見ていると、本当に最初から最後までずっとファサが気になる。ファサの歌い方、ダンス、ラップ、衣装、化粧。なぜこんなに気になるのか?

まずサムネで分かる、ファサの体格を強調するようなショートパンツとぴっちりした衣装。衣装チェンジがあっても、他のメンバーに比べて、ファサの衣装はハイレグやショーパンなど「太もも」の強調されるスタイルが多めだ。本人が「オーディションのときに太っていて綺麗じゃないと言われた」と話しているように、多分アイドルにしては少しグラマラス過ぎるファサだが、「HIP」ではむしろその体格を目立たせるような服を着ている。
次に髪型。ファサはわりと頬骨がくっきり見える顔立ちなのだが、それを強調するようなショートスタイルが曲の序盤で目に飛び込んでくる。三白眼気味にニヤリと、こちらに向かって微笑するファサの顔には、あの特徴的な頬骨がきれいに浮かんでいる。
そして歌い方。ガールクラッシュ的な、正統派「かっこいい」を体現したようなムンビョルの歌い方とは違って、ファサはなんだかちょっと怖い歌い方をする。ぽってりとした唇に、めちゃめちゃ赤いリップを塗っていて、歌うときはそこから厳つい白い歯がむき出しでのぞく。もはやこれは「かっこいい」ではない。むしろ怖い。こっちを食いちぎりに来そうで怖い。

そんなファサから目を離せない。なんてカッコいいんだ、ファサ。全てが美しすぎて、1秒たりとも目を離せない、離したくない。下唇を突き出し、むっとした表情でこちらを睨んでくるところ、それでいてハチャメチャにダンスが上手くてめっちゃ歌も上手いところ。完璧すぎる。「HIP」を超えるMVなど(私にとっては)未だない。

――っていう、ファサの話は導入であり余談なので、閑話休題。
今回の本題は「化粧」の話だ。

最近、「化粧には自分らしさを表現するための機能もある」とか「男ウケじゃない、自分ウケの化粧がある」とか、そういう言説をよく目にする。そういう主張をする女性たちは、多分「男ウケ」とかいう、女性を「男性のために存在する」かのように客体化するミソジニーに頑張って立ち向かっているのだと思う。彼女たちはたいてい、メイクすることを楽しみ、それでいて誰かから「メイクしろ」だとか「メイクするな」だとか、そうやって決めつけられることに抵抗してきている。
その言説自体を、私は決して否定しないというか、むしろ私自身「自分ウケのメイク」が良いと思っている。思っているのだが、そのうえでちょっと私の悩みごとを聞いてほしい。

私、フェミニストなんだけど、ここのところ「フェミニストだから化粧しなきゃいけない」気がしてわりとマジでしんどい。

私のことをよく知る人なら、私がフェミニストを自称していることは知っていると思う。
そしてついでに、全くと言っていいほど「メイクをしない」タイプのフェミニストだということも、もちろん知っているはずだ。
私はメイクをしないし、それどころか、太陽さんさんでクソ暑いこの季節に、日焼け止めすらほとんど塗らない。この前、日焼け止めなしで原付に3時間ほど乗っていたら、肌がどえらいことになってしまった。それ以来ちょっと気をつけているけど、基本塗らない。
コンタクトもしない。「コンタクトにしないんですか?」とクソどうでもいい質問を、これまで色んな人から言われてきていて正直クソ鬱陶しいので、表向きは「ドライアイで目に馴染まないんですよ~」と言っているが、実はそんなこと関係なく野暮ったいメガネをずっと掛けている。いや、確かにドライアイは「コンタクトにしない」理由の一つではある。けど単純に値段が高いし面倒くさいし、なくなるたびに買うほどの手間をコンタクトごときにかける理由がマジで分からないというのが本音である。目薬さすのも面倒くさいし。
ついでに髪型はベリショだ。私は基本的に、願掛けするときくらいしか(つまりスピリチュアルな理由でしか)髪の毛は伸ばさない。美容室に行くたびに、「ボーイッシュかつ可愛さも残るようにしますね」とか言われるのだが、毎回中途半端に邪魔な髪型になるので殺意が湧く。一時期諦めて「これはこれでカッコいいから良いかも」とか思うようにしていたけど、ベリショにしてから「やっぱこれが良いわ」と思い直した。似合わなくても前髪は眉毛より上がいいし、サイドは絶対刈り上げたいし、後ろも刈り上げてほしい。私は丸顔で、ちょっとエラも張っているのだが、それで王道の可愛さから離れても、ベリショはお風呂上りに楽だからすごく良い。
服もわりとテキトーである。というか、自分なりのこだわりで、「グラニフ」のTシャツがすごく好きで、変わったデザインの服をよく好む。変わったデザインのトップスに、履いてて不快にならないボトムス。それが私の基本スタイルだ。

さてさて、私がこんなふうになったのは、別にそう昔からの話ではない。
一時期は「メイクした方が良いかも」「むしろ自分ウケを追究するメイクを大事にしたい」と思って、メイクしたり服装に気を使ったりする時期もあった。18歳から22歳くらいまでの自分は、まさにその格闘をしていたと言っても過言ではない。
が、結局全部やめてしまった。単純に、「自分ウケ」を目指せば目指すほど、時間と金のコストがかかることを理解してしまったのと、何よりこの世界に住んでいて、私自身が「こうなりたい!」と思うようなメイクや服装は、私には壊滅的に似合わないことを知ってしまったからである。
結局、私にとっての「自分ウケ」は、私が持っているコンプレックスの裏返しでしかなかったのだ。もちろん現代の技術があれば、そんなコンプレックスをことごとく帳消しにできるようなメイクとか、むしろコンプレックスを生かしつつ爆裂にカッコいいメイクだって可能なのだろう。
でも、そもそも何で私がそこまでのコストをかけて「自分ウケ」を目指さなければいけないのだろうか。
私たち、そんなに「自分を愛さなければいけないの」?
コンプレックスを潰したり、生かしたり、本当にしなきゃいけないですか?
MAMAMOOのファサは既存の美しさと違うところから、美しさを表現しているけれど、私たちマジでそこまで目指さなきゃいけないでしょうか?

誰からも「見た目が若くて美人」と言われる母親と、「見た目が若くてイケメン」と言われる父親と、「あの学校で有名なイケメンな先輩」と常に言われている弟①と、「優しくてカッコいい」と言われている弟②に囲まれて育ってきた。
そういう私は、名前に「美しい」という字と、性格の良さを表すような字が入っているのだが、常に自分を取り囲む「美人とイケメン」に引け目を感じながら生きてきた。
例えば弟と道を歩いているとき、「あの兄弟似てないね」「弟の方はかわいい~」と言われるのはザラ。授業参観に両親が参加しようものなら、「お父さんとお母さんはイケメンと美人なのに、なんでお前ブスなん?」とか「名前と全然違うよな」とか、「いっそ『ブアク(不細工のブに悪)』とかいう名前だったら良かったんじゃね?逆に(笑)」とか、そんなことを言われる。
父親に似た、今にも繋がりそうな太い眉は、それでも形の整った父のものとは違い、上手に剃ろうとしてもボサボサになる。母自身が、自分の中でコンプレックスに感じているらしい「低い鼻」と「荒れやすい肌」、「わりと目立つほくろ」、「目の下の黒いクマ」は、ばっちり私にも受け継がれている。規則正しい生活をしていても出来物は顔にできるし、頬はなぜか常にちょびっと赤い。丁寧に肌を手入れしていた時期ですら、肌荒れと赤みはついになくならなかった。
両親が共に持っていた「二重の大きな瞳」は、一切私には受け継がれず、祖母に似た小さな一重が私の顔には乗っている。同じく一重の、かつての親友が二重整形する前に言った、「一重とか生きてる価値ない」という言葉を、今でも私は覚えている。親友にそんなことを言わせた社会が憎かったし、「えっ私も生きてる価値がないってこと⁉」と悲しむ以前にびっくりした。

そんな私は、「自分ウケのメイク」と聞くと、反感は覚えずとも複雑な気持ちにならざるを得ない。
ガールクラッシュとか、従来の女性らしさを打ち破る「自分らしい」アイドルとか言ったって、K-POPアイドルはみんなめっちゃ可愛いし、カッコいいし、スタイルも良い。
ここのところ、「メイクは自分のためにする」「自分ウケのメイクがある」「したければすればいいし、したくなければしなくていい」と言う女性たちは、たいがいメイクをしていて、小綺麗な服を着ていて、揃いもそろって普通に可愛い。確かにそれは「男ウケ」メイクとは若干違うのかもしれないけれど、可愛いことには変わりはない。
メイクもしなくて服も雑に着ている私が、女性たちに「メイクは自分のためにしたらいいよ」とか言っても、全然響かなくて、結局みんな綺麗で可愛いフェミニストが大好きなんじゃないかと思う。そういうフェミニストじゃないと、誰も話を聞いてくれないんじゃないかとすら思う。
だって私も、スタイルがよくて顔が綺麗なK-POPアイドルが、おらついてカッコいいことを歌っている姿が好きなんだもの。私の中にある「美」に関する価値観が、本当に自分だけのものなのか、それとも資本主義やルッキズムによって刷り込まれたものなのか、結局のところ全然分からない。私はその「分からなさ」を受け止めて、「どんなメイクも実は女性を縛っている論」も「純粋に自分のためのメイクは存在する論」も、複雑な気持ちで聞いている。どちらも否定できないし、かといってどちらも肯定できない。単純に、本当に分からないのだ。
ただ「メイクは自分のため」と言うフェミニストたちを見ていて、せめて彼女たちの足を引っ張らないようにしようとは思っている。だから「いやあなたたちも、結局ちゃんと『可愛い』じゃないですか」とは言わないようにしている。

――で、そんなことを思うからこそ、可愛くて美しいフェミニストたちから「自分ウケのメイクはあるでしょ」と当然のように言われると、「結果ブス」の私はちょっと困惑するしプレッシャーを感じる。
ちなみに「フェミニスト、結果ブス」とは、うちのパートナーが言った言葉で、ひねくれでも悲観でもなく、フェミニズムをやりながら、ただただ(大儀とは一切関係がないところで)化粧がしたくなくて、結果として「ブス」として生きているフェミニストの状態を指している。
私はこの言葉が結構気に入っていて、というのも、世間様は「ブス」であることにやたら理由をつけたがる。それはフェミニズムの世界でも同じだ。と、いうか、フェミニズム擁護派を名乗る外野が、そうやって理由をつけたがっている気がする。
私はただ「自分ウケ」を目指すことにかかるコストに鬱陶しさを感じて、結果として「ブス」を生きているだけなのに対し、外野にいる連中は「『あえて』ブスをやめるか、ブスを選ぶか」の二択を迫って来る。そして「あえてブスをやめるフェミニスト」と「あえてブスを選ぶフェミニスト」の対立が――もう本当にそんなことどうでもいいはずなんだけど――生み出される。
「『フェミニスト』を自称したら、ただメイクをしないということにも政治的意図が発生するんですか⁉⁉」という困惑が、常に私自身にある。で、もし政治的意図が発生するとすれば、「あえてブスをやめるフェミニスト」=メイクも服もばっちりで「自分らしさ」を主体的に愛し生きるフェミニストの方が、世間様にはウケが良いに決まっている。
「あえてブスを選ぶフェミニスト」=徹底的にメイクも小綺麗な服も放棄するフェミニストの気持ちも痛いほどに分かるけれど、全て女性のためにフェミニズムを広めたくもある私にとって、「じゃあもうやっぱり美しいフェミニストを目指した方が、フェミニズムにとって有益なんじゃないか」とか思ってしまう。

先日、「ルッキズム的に『やらなきゃ』と思ってやるメイクもあるけど、自分ウケのメイクもありますよね」と言う友人に対し、「ルッキズムじゃなくても、資本主義に追い立てられてするメイクもあるし、本当の『自分ウケ』メイクってわりと難しい気がする。だから『自分ウケ』メイクって言われても、めっちゃ複雑な気持ちになるときがある」と私は答えた。すると友人から「時々、フェミニストの人たちが女性に何を求めているのか、分からなくなります」と言われた。
その時はなんと返事すれば良いか分からずに「あばばばば」と口ごもってしまったけど、今ならちゃんと答えが用意できる。
「いや逆~~~~~~~っ!!!」と。
ミソジニーの世界にいれば、「女性は、特に父や彼氏・夫の望む容姿でいなければいけない」という規範があり、その規範を打ち破ろうとすると、今度は「積極的にブスをやめること/ブスを選ぶこと」のどちらかを求められる。フェミニストである自分からすれば、好きに「結果ブス」でいさせろという気分なのだが、外野の連中が選択を迫るので、仕方なくどちらかの政治的スタンスを取る羽目になる。
本当に打ち砕くべきは「資本主義とルッキズムでがんじがらめになった『美』の基準」であり、その基準に対して複雑な気持ちを抱えつつも、社会に向けて「『美』の基準を解放せよ」と言い続けることが本来重要なはずだ。
それを簡単に「ブスを選ぶか、ブスをやめるか」というフェミニズム内の対立にさせられると、結果ブスでありつつ「ブスを選ぶ」人の気持ちも「ブスをやめる」人の気持ちもどちらも分かる私は、なんかもう非常に困る。
少なくとも、私は女性に何も求めていない。「自分らしさと社会的背景の間で揺れる、複雑な美の基準」の複雑さを理解せずに、「ブスORブスじゃない」フェミニズムの対立を煽るのはやめてくれと世界に言いたいだけである。

と、まぁ理性的にはこんなふうに考えているのだが……。
「自分ウケ」を標榜するフェミニストの方々に、結果ブスの私から1個だけ言いたいことはある。
メイクで白い肌と大きな瞳を表現している美しい皆さんが、「私のためのメイク」を掲げるのは、なんというかちょっと無理がないでしょうか?
こんなことを言うと、またフェミニズム内の対立をあおるみたいですごく迷うところだ。
だが私が結果ブスでいることに「メイクしないのも選択の一つだよね」と、あたかも私の自由意思でブスを選んだかのように美しい皆さんから言われると、結構しんどいものがある。「そんな自分を認めているんだから良いよね」などもそうだ。いや別に認めてはいない。ふとした瞬間、zoomとかに映る自分の顔が気になって気になって仕方なくなるけど、そういうときはさりげなく気持ちを抑え込んで生きている。自分がブスであることを心の底から認めてはいないけど、ブスをやめるコストを考えるとどうしても面倒くささが勝ってしまうだけなのだ。あとブスであることは「認める」とか「認めない」とか、そんな単純な話でもないとも思う。
ここまで言うと、今度は「見た目より大事なことがあるってことだよね」に続くと思うのだが、結果ブスに「見た目より大事なことがある」とか意味付けしないで欲しい。本当にやめてほしい。確かに、私はメイクより服を買うより、映画見たり本を読んだりしている方が好きなんだけど、それは私の話であり、きっと中には特に理由もなく結果ブスの人もいると思う。それはそれで良いというか、別に評価するべきポイントでもないと思う。

認めてなくても、別に見た目より大事なものがなくても、ただただ理由がなくても、ブスでよくないですか?
で、私の結果ブスに何か意味付けしようとする人々には、こういう私自身のジレンマは伝わっているのだろうかと、日々疑問に思っている。

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