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おじいちゃんの死を目の前に考えること。「所詮、人の体なんて魂に使い捨てられるもの」

5日前におじいちゃんが亡くなった。もうずいぶん長生きして老衰での最期だった。施設に入ってからも長い時間が経っていて、ここ3年ほどは施設内にも入らせてもらえなかったからしばらく会えておらず、会えないことに慣れてしまい、なんだか死を受け入れているような、受け入れられていないような不思議な感覚のままお葬式の日を迎えた。

お坊さんの長いお経を聴きながら考えたこと。それは、所詮、人間の体なんて最後には燃やされて跡形もなくなってしまうほど脆くて弱くて、虚しい、儚いもの。でも、魂だけは今後も生き続ける(私は輪廻転生を信じているので)。魂がどの体に入るかを選び、使えなくなったら出ていき、また違う体に入っていく。魂からすれば、人の体なんて使えなくなったら用無しなのだ。
だから、魂に目一杯この体を、今世を楽しんでもらうために魂の声のままに私たちは生きるべきだと思う。私たちの体や理性、思考なんて魂の奴隷でしかない。
おじいちゃんは95歳まで生きたのだけど、95年も魂が居続けたということは、それだけ居心地の良い体だったんだろうなぁなんて思ったり。そう思うと、魂にとって居心地の良い体でもありたいと思う。私の今の体の状態はどうかと言うと、まぁ心の上がり下がりが激しいから体も不安定で、きっと魂にとっては最悪の居心地だろう。

そんなことを考えている間に、なんとなく頭の右側と胃袋あたりとの間に道が出来て、青い火の玉みたいな魂が頭側から入ってくるのを感じた。なぜ頭の右側からなのかは分からないが、胃袋あたりに青い魂が住んでるのを感じ始めたんだよねって友人に話すと、第3チャクラが開いている人なんだねと言われた。調べてみると、第3チャクラは精神を司る場所で、自尊の念を育て、自分を個人として確立させ、自分自身の意思で自己を形成することを可能にする、いわば「パワーの発電所」らしい。なんとなく、自分だと思った。

私にしか分からない感覚だから、なんとも言えないことではあるけど、とにかく私はおじいちゃんのお葬式の日を境に、青いカルシファーを飼っている。(カルシファーみたいな顔をしているのだ。)いや、飼っているのではなく、私が飼われている。やっと飼い主に会えたような気分だ。
気が付いたときに、今どんな感じー?と問いかけると、うーん…としかめっ面していたり、眠そうな顔をしていたり、きょろきょろして警戒していたり。まぁまたこれが全部表情に出て分かりやすく、しっかり気分屋だから、飼われてご機嫌を取らなければならないこちらが忙しい。
ご機嫌が取れて、飼い主様が穏やかな表情をされている時はまだあまり見たことがないから、まだまだ不安定なことがよく分かる。

この飼い主のために私はあとどれくらい強く、たくましく、安定した人間に育たなければならないのだろうか。先が思いやられるが、このわがままな飼い主が愛おしくてたまらない。


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