見出し画像

【放課後ゼミ】中西(2019)「宇野登による特別活動の指導に関する一考察」(2022/12/02)

昨日のゼミは中西修一朗(2019)「宇野登による特別活動の指導に関する一考察:蜂屋慶の生活指導論の視点を踏まえて」を課題文献としていました。
https://cir.nii.ac.jp/crid/1050565163348773632
*Ciniiは誤った氏名で登録されています(ご本人認識済・おもしろいから放置済)。

みなさんが学ぶことが前提なので(そして、やはり実践家養成の場なので)、研究的な視点は封印しがちですが、以下の点は検討してみるとおもしろいかもと思って、発表や議論を聞いていました。

(1) 宇野が用いている「機関」概念について、なぜ敢えて「機関」なのかを考えてみるのはおもしろいかも。宇野が何をもって「機関」という言葉を用い、これにこだわったのか。時代背景を踏まえると読み解ける可能性も(あくまで仮説的)。

(2) 宇野自身の子ども観(子どもとはこういう存在であるという先入見ないし経験知)を整理する必要がある。この点、彼が京都帝大時代に師事した木村素衛からの思想的継承(と断絶)を一つの分析視角にするのもいいかも。子どもという主体の「形成」において、宇野が前提しているものを繙くと宇野実践の理解に資するだろう。

(3) 宇野の「学校オモテ文化」「学校ウラ文化」という提起に対して、中西がこれを解釈しているが、「『学校ウラ文化』、これ良きもの」とされているが、これは対象化して考える必要がある。たとえば、ジャクソンの「ヒドゥン・カリキュラム」論や、日本の「児童文化」と「子ども文化」論(宇野とも共同研究していた片岡徳雄や藤本浩之輔等参照)で検討されていることと比べてみてもいい。

私のゼミは一つの課題文献を設定して、みなで読んでくるという割りと古典的なスタイルです。一つのテクストを読むのって結構難しくて、昨日のゼミでもそうでしたが、同じものを読んでも人によって理解が異なることがままあります。そういうときは、(1) テクストの該当箇所に立ち返る、(2) テクストで語られていないけど前提されていることを探るのがよいです。(1)は、自分の読みに生じているバイアスを対象化して、きちんとテクストに閉じてよむということ。(2)は、しかしテクストはテクスト内だけに閉じて「論理的」「客観的」に読めるものではない、それでは「理解」が及ばないので、テクストが乗っかっている文脈を知ることに努めるということ。

文章というのは原則として想定読者がいるものなので、著者が想定読者と共有できていると思っていること(知識、文脈、構造等)は明示されずに話が進むものですので、テクストを支えるテクスト外の情報を踏まえないと、一つの文章を「読む」「読み解く」というのはなかなか難しいということです(もちろん何をもって「読めた」とするかという「読み」の粒度、あるいは読みの「理解」の粒度に関わる問題ではありますが)。

次回以降のゼミでは、(1) 迷ったら本文に戻ってみる、(2) 読めない部分はテクスト外の情報が必要なのかもと思って追加調査してみるのがいいかもしれません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?