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エッセイ 父の映画鑑賞

  ある朝突然映画を見たいと言いだしたのが、アルツハイマー病がすっぽりと覆いかぶさった認知症、しかも要介護3の父であったから、教育熱心な我家としては実に目出たいのであった。

 年寄りは概ね昔のことを鮮明に覚えていて、何度も同じ話を繰り返すとよく耳にする。
 けれども父の場合は、覚えているには覚えているが、決して鮮明でないどころか同じ話を繰り返す度に主人公やシナリオが変化し、さらには結末も変わることがある。

 専門用語ではこれをマルチエンディングと呼ぶが、そのおかげで年寄りの人格上の財産ともいえる歴史的趣きは、父に限ってきれいサッパリ蒸発してしまっている。

 そういう前提のもと、若い頃に観た時の感動が忘れられないという理由を元に欲求として浮上した映画が《二十四の瞳》であった。

 壺井栄の小説を元に昭和29年と昭和62年の二度映画にされている。
 最初メガホンをとった木下惠介監督が、二本目では脚本を担当したことも興味深い。

 父は過去に新旧の二作ともを既に観ていたのだが、最初の作品の印象が余程強かったようで、新しい方を理不尽に酷評した。

 よって私が手配を間違えないように何度も、

「モノクロで、高峰秀子が主演の方やで」

と、粘っこく念を押すのであった。

 ほどなく私の手元にディスクが届いた。昨年亡くなった友人の遺品である大きなモニター画面の前に応接用のソファーを移動させ、その特等席に父は深く腰掛け、深呼吸を一つしてから画面に見入る。

 父なりに相当気合を入れて神経を集中させていることがかなり後方に座った私にまで伝わってきたので思わず目尻が下がった。

 最初にこの映画を父が観たのは21歳の時であったという。
 そうするとちょうど60年ぶりだと教えると声をあげて驚いた。

 60年という歳月の何に驚いたのかを本人に聞いても、自身の感情の起伏について、まるで整理がなされていなかったが、今さらそんなことは気にならない。

 小説では「瀬戸内海べりの一寒村」なのだが、この映画では「小豆島」と設定されている。

 戦争という荒れた道を突き進んで来た日本人が、やがて敗戦によって悲しく苦しい時代から解放された。

 その前後における極端に異なる空気と価値観の二つの時代に属した人々の生き様が、昭和8年にうまれた父の人生とほぼ重なるのであった。

 けれども映画を最後まで見終わった父は、予想に反して何やら物足りない顔をしている。感想を聞くと、

「とにかく高峰秀子は最高やな」と言った。

 ところが思ったほど感動はしなかったらしい。そしてその理由を、若い頃と今とでは、見る視点が異なるのが原因ではないかと、自らに目を向けた素晴らしい推測をした。

 この発言は、長期に渡って父の人格に侵されてきた私にとっては実に衝撃的であった。

 父の一生を貫いたと言っても過言ではない、自らの感覚や判断を一切疑わない独善的な性格の根底を揺るがす事態であったからである。

 私はほんの少しだけ父を見直した。たとえ長時間は持続しなくても、脳の知的改善の蜃気楼をそこに見たからである。

 蜃気楼は夢とは異なる。実際には見えないはずだが、どこか遠くに実在するものが、光の屈折でぼんやり見えるのが蜃気楼なのである。

 しかしそんな思いも儚く消える。私の見たのはどうやら蜃気楼ではなかったようだ。
 
「一番強烈に記憶に残っていて、自分がどうしても見たかった名場面がなかったんや」

 唐突に父がそう訴えた。

 どんな場面がなかったのかと私が問うと、視力を失った者が語る場面だと言うのだが、なかったどころか、それはこの映画の最大の見せ場であった。

 主人公の大石先生が分教場に戻ったことを祝い、かつての教え子たちが同窓会を開いた。
 その席で、前線で失明した磯吉が、一年生の時の記念写真を指差しながら、まるで見えているかのように、写っている者全員の顔つきや位置を語るのである。
 けれどもその指さす位置が微妙にずれて、皆の涙を誘う。

 私は父にその事実をやさしく告げた。

 恐らく長時間の映画の終盤であったから、その時だけ集中力が途絶えたのだろうと、父と自分を両方一緒に慰めた。

 しかし事態はさらに思わぬ方向に激しく跳ねる。

 父は磯吉の場面をちゃんと認識していたのである。けれども父の記憶によると、盲人は女性であった。
 
 最後に目が見えるようになった女性が、握った手の感触で真実に気付くのだという。
 私はとある別の映画を思い出さざるをえなかった。

 街で出会った盲人の美しい花売り娘に、浮浪者が紳士になりすましてやさしく接し、その娘のために懸命に働いて目の手術代を手渡す。

 娘はその金で病院に向かうのだが、その間に浮浪者は強盗と間違われて刑務所に入れられてしまう。

 時が流れてようやく刑務所を出た浮浪者は、目が見えるようになった娘と街角で偶然再会し、思わず見入ってしまう。

 けれども自分の恩人が紳士だと信じている娘は、そのことにまるで気付かない。

 浮浪者は黙ってその場を立ち去ろうとする。
 ところが娘は、ふと浮浪者を哀れんで、一輪のバラと小銭を手渡そうとし、男の手を握った瞬間に、この浮浪者こそが恩人であることに気付くのだった。
 
「you?」(貴方でしたの?)
 
 その名画《街の灯》との勘違いではないかと疑って、それをたずねた。
 
 父は『街の灯』というタイトルを覚えていなかったので、私はあえて「チャップリンの映画だ」とつけ加えた。

 するとそれを聞いて父が声を荒げて罵声をあびせた。
 
「オマエはワシを騙したんか、さっき観た映画、チャップリンの映画やなかったんか!」。
 
 
 

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