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エッセイ 書くという力

「被告人は本件において被害者に対し謝罪の手紙を出しましたが、それを受け取った被害者であるAさんの意見を読み上げます」

 検察官はここで、拳を口元にあて、ひとつ軽い咳払いをしてから再び声を出した。内容はおおむね次のようなものである。
 
「犯人の大原(仮名)が送ってきた手紙の最初にまず、『僕は今、留置所で、毎日キツイめをしています』とありました。

 さて、労働も課せられず、三度の食事もきちんととれて、いったい何がどうキツイのでしょうか? 私にはそれがまったくもって理解できません。

 大原が奪ったお金は、私が本当に《キツイ》仕事をして、長期間コツコツと貯めたお金です。手紙の最初を読んだだけで、私は怒りが込み上げてきました。大原は絶対に反省していないと確信できたのです。

 大原は、私のバッグから奪った現金をすぐに使い果たして、次に同じ団地に住む私の知人でもあるBさんの家に空き巣にはいりました。

 あとでBさんにも、留置所の大原から手紙が届いたと聞きましたので、Bさんに会って話をすると、なんと私に届いた手紙とBさんに届いた手紙の内容がまったく同じものでした。

 呆れてものも言えません。こんなものが、反省している人間が本心から被害者に謝罪をしている内容だといえるのでしょうか。

 少しでも自分の罪を軽くするために、とりあえず謝っておけばいいという安直な考えで書いたことが見え見えです。

 それに、私のお金どころか、Bさんの家に入る時に割ったガラス代さえも、大原も大原の両親も、いまだに弁償していないそうです。

 それよりもさらに私が許せないのは、大原は割ったガラスの破片を、Bさんのベランダの洗濯機の中に投げ入れたそうですが、もしもBさんが知らずに中に手を入れたらどうなっていたのか、考えただけでも恐ろしいです。

 なぜ顔見知りのBさんにわざわざこんなひどいことができるのかが、私はどうしても理解できません。

 私は大原が、血の通った人間だとは、どうしても思えないのです。

 また、大原の両親は、当初同じ団地に住んでいましたが、事件があってから、さすがに同じ団地だと気まずいのでしょう、さっさと引っ越したようです。それでも団地の噂では、市内……しかも比較的近所に住んでいるというではありませんか。

 とにかく、大原には絶対に刑務所に行って、とことん本当の"キツイ目"にあってもらいたいと思います。またこれは、私ひとりの意見ではなく、同じ手紙を読んだBさんとも十分に話をして、Bさんも私とまったく同じ考えだということを、はっきりと伝えておきます」
 
 その時なぜか、壇上の裁判官と、その日唯一の傍聴人であった私の目が合った。いや、そんな錯覚がした。同時に互いの心の声が一致した不思議な空気を感じたのだ。それは、
「あ〜あ」という落胆の声だった。
 
 検察官は、被告人質問で当然のように衝いた。

「君は、どうして手紙を書こうと思ったのかな?」

 被告人がつぶやく。

「悪い、と、思ったから……」

「誰かに書けといわれたの?」

「いや…………」

「手紙を書けば、罪が軽くなると考えたのかな?」
 
 普通ならここで弁護人が「待った」をかけるが、弁護人もおそらくさっき「あ〜あ」と思ったに違いなく、不覚にも見過ごしてそのまま流してしまった。

 被告人は窮して黙った。それが黙秘権の行使ではないことが一目瞭然なのに、検察官は、わざと虐める。

「言いたくないのかな?」

 被告人はすでに硬直している。

「まあいいや……言いたくなければ言わなくても……」

 検察官は手元の資料に目を向けた。さあ次はどう攻めるのだろうかと思った瞬間、検察官の口元が緩んだ。それが私には、愚かすぎる被告人に対する侮蔑の笑みに見えた。
 
 今回の検察官の使命は、判決で確実に実刑をとり、執行猶予中に再犯をおかした不届き者を刑務所に送り込むこと以外にない。さすがに本件に限っては、検察のメンツも十分理解できる。何よりも、なけなしの現金を奪われたまま返ってくる見込みがない被害者が不憫でならない。私が検事なら、もっと過激になるはずだ。
 
「裁判官、以上です」

 検察官は、すでに勝負あったと見て、その後の無駄な労力をすべて省略した。明らかに手抜きだが、誰もそれが気にならないし、おそらく大勢に影響しない。
 
 弁護人もとりあえず手紙にこだわった。というか、それくらいしか被告人を擁護する材料がなかったにちがいない。たとえ焼け石に水でも、一応仕事はしておかねば、こちらは特にメンツがたたない。
 
「あの手紙は、誰が書いたの?」

 被告人は、今度は口を開いた。

「僕です」

「文章は誰が考えたの?」

「僕です」

「一度書いて、また書き直したんだよね」

「はい」

「それはどうして?」

「うまく書けていないと思ったから」

「誰かに書き直せと言われたの?」

「いいえ」

「自分で考えて書き直したんだよね」

「はい」

「何回書き直したの?」

「3回か4回」

「とにかく、君としては思いつきなんかじゃなく、何回も考えて書き直して書いた手紙なんだよね」

「はい」

「ということは、一生懸命書いたんだよね」
「はい」

「さっき検察官が読んだAさんの手紙からだと、罪を軽くするために思いつきで書いた、と思われているみたいだけど、そうなのかな?」

 ここでまた被告人は、否定せずに沈黙する。ここで黙られるとやぶ蛇になる。やばいと思った弁護人は慌てて裁判官に向かって「以上です」と言って素早く着席した。
 
 いよいよ裁判官の番である。

 ちなみに私の知る限りだが、山口の法曹レベルは、高い方から、判事•検事•弁護士の順である。法廷での呼び名はそれぞれ、裁判官•検察官•弁護人ということになる。
 このランキングは都市部と完全に正反対であることが重要で興味深い。
 
「被告人は、前にも起訴されて、法廷で裁判をうけていますね」

「はい」

「何の罪で起訴されたの?」

「泥棒」

「窃盗ですね、それで、それがいつだったかを覚えていますか?」

「去年です」

「去年の何月?」

 被告人、沈黙。

「今、執行猶予中だということは自覚していましたか?」

 被告人、沈黙。

「判決の時、裁判官から、執行猶予がどういうものかの説明を聞いたと思いますが、それを覚えていますか?」

 今度は小さな声で答えた。

「いいえ」

「聞いてないの? それとも聞いたけど忘れたの?」

「……」
 
 しばらくの沈黙を看取ったあと、裁判官は小さくうなずき、その後速やかに結審した。
 
 検察官、弁護人、裁判官の三者による被告人質問の最後は、それぞれ異なった色彩であった。

 検察官は「侮蔑」。弁護人は「想定外」そして裁判官は「確信」だったはずだ。
 その確信は、先の「あ〜あ」からつながる「下手だなあ〜」を経ているのは明白である。そして裁判官の確信は、そのまま判決の主文につながるはずである。
 
 被告人は23才、高校を卒業後どんな仕事も長続きせず、ついには労働に至る過程である就労意欲自体が失せてしまい、とっさに最も安易な方法で金銭を得た。

 その結果、窃盗で逮捕•起訴されたが、幸いにも初犯であったため、4年の執行猶予をもらって釈放された。

 当然親からの信頼などない。それでも行く所もないので、とりあえず両親と一緒に住んでいたが、ついに家を追い出される。
 親は被告人が外出中に玄関の鍵を取り替えたのだ。 

 被告人は深夜帰宅したが家に入れなかったので、同じ団地の知人であるひとり暮らしのAさんの家に行き、事情を話してしばらくの時間かくまってもらった。
 Aさんは常日頃から、被告人を何かと気にかけていた。

 そのAさんが目を離した隙に、被告人はAさんのハンドバッグの中をあさり、現金が入った封筒を抜き、そのまま何食わぬ顔をして外に出たのである。見事に恩を仇で返したのだ。

 中には、百万円という思いもせぬ大金がはいっていた。被告人は自分の幸運に感謝した。悪銭は外泊のためのホテル、サラ金の返済、ギャンブル、ゲームセンター、風俗で、あっというまに蒸発した。

 Aさんはすぐに被告人を疑い、まずは本人に「自分の金を知らないか?」と問いただし、そっけなく「知らない」と言われたので、慌てて警察に届けた。

 被告人はAさんの金を使い果たして、今度は同じ団地のBさん方に空き巣に入った。 

 顔見知りのBさんが家を出たのを確認したうえで、ベランダからガラスを割って室内に侵入し、20数万円を盗んだ。

 検察官は、手口は計画的且つ手慣れていて悪質だと断定した。

 けれども、侵入口付近に犯人の指紋や足型がそのまま残っていたから、決して窃盗のプロとはいえないお粗末な犯行であった。行為は手慣れていても、そのあとの計画性がまったくない。あまりに幼稚すぎる。

 そもそも普通に知恵を巡らせば捕まらないわけがない。しかも執行猶予中である。おまけに犯行現場のすぐ近くに住んでいるのだから、自分がいの一番に怪しまれるのは容易に予測がつく……はずなのである。

 しかし、その当然の予測がつかないほど、被告人の知的能力は乏しかったに違いない。ここにやるせないほどの哀れさが漂う。

 それでも……意外や意外。被告人の風貌は、どこにでもいるごく普通の華奢な体つきの若者なのである。
 学生のようなメガネをかけ、目つきも決して険しくない。知的障害があるようにも見えない。障害というまでひどくはないから余計にたちが悪いのかもしれない。もしも障害であるなら、弁護側が声を大にしてそれを強調するはずなのだから。
 
 さて、翻って考えてみる。

 もしも被告人に、ほんの少しでも文書を書く力があれば、この裁判はどうなっていたであろうか?
 
 私は若い頃、恩師から、
 
「書くという作業は、自己確認であると同時に自己変革でもある。それだけに孤独な営みであり、エネルギーの集中が要求される」と教わった。
 
 つまり、ものを書くということは、まずは自分との対話からはじまるのだ。そして、
 
「人間は、自己を表現しているとき、内在する力を発揮しえているとき、自分自身でありうる。人間そのものへの省察の度合いが、文章を深めもし、浅くもする」とも教わった。
 
 被告人がもしも自分に向かい、対話し、自己変革をしながら自己を表現して、なおかつ被害者の思いをより深く見つめたならば、もしかすれば被害者の怒りに油ではなく、少しでも水をかけることができたかもしれない。
 
 さらに、こうも教わった。
 
「限りなく洞察を深め、向上をめざす、それが人間の本性というべきものであろう。成熟に向かって、人間の内側にあるものが、その達成を待っている。自分の内側にある、何か生き生きしたものを追及し、自己を覚醒させる、それが表現活動の源泉となっている」と、
 
 考えるまでもない。

 被告人がもしも書く力を持っていれば、ここまで愚かな犯罪は犯さなかったに違いない。起こるべき事件が、起こすべき者によって起こされた。というしかない。かつて永山則夫が言ったように、犯罪の原因は無知から生じているのかもしれない。
 
 検察官の求刑は懲役1年6月だった。執行猶予だった刑を足すと、勾留期間を差し引いても2年半は、たっぷりある。
 判決は半月ほど先だが、天と地がひっくり返っても実刑以外は考えられない。
 
 無知とはかくも恐ろしい。
無知は知ろうとしないところから始まる。
 教えられても気に留めない。
 だからますます無知になる。

 その無知が、やがて人を傷つけ、他人に被害を及ぼす。そして自らをも破滅に追いやるのである。

 こうして無知は果てしなく広がる。それをくい止めるには、学ぶよりも、まず書くことが一番だと思う。

 先にも述べた死刑囚 永山則夫は、独房で《無知の涙》を執筆し、それを期にして存命運動と死刑廃止運動が加速した。
 
 洞察が浅ければ、表現されたものも画一的になり、空虚感だけが残る。
 被告人の場合は、書く技術が未熟だったことより、浅はかな洞察が、謝罪文の冒頭の致命的な失策を生んだといえる。
 
 何よりも哀れなことは、23才の被告人が今も、事の重大さに気付いていないという事実である。  了

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