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エッセイ 戦争映画

 おそらく時代のほのかな硝煙の匂いを、五感や六感が敏感に感じてしまっているのだろう。

 私の最近の感性のアンテナは、戦争映画に向いていた。

 50歳を超えてからは、どんな戦争映画を観ても、不思議と子供の頃に感じたような感覚が消えてしまった。

 たとえば、戦闘機や軍艦なんかの、バトルの格好良さや強さに対する憧れ。
 特に自らの命を上回る正義感や誇りや愛国心と共有する友情や敵への怒りなどを、ほとんど感じなくなってしまったのだ。妙に冷めた感がある。

 戦争映画そのものが進歩したのか、それとも自分自身が大人になって価値観がかわり、人間性の幅を広げ賢くなったのか、答えはわからない。

 まずは借り物のDVDで、核を搭載した弾道ミサイル装備の原子力潜水艦を舞台とする、1995年の潜水艦映画を観た。アメリカ映画である。

 司令本部……まさに国家最高の意思決定機関。つまりは米国大統領からの伝達内容が、潜水艦独特の理由により、不完全なままの状態で原潜に伝わってしまう。

 そして人類を確実に破滅に導く究極の破壊力の行使をめぐる緊迫したドラマが閉鎖空間で展開するのである。

 私がとらえたこの映画のテーマは、艦内の会話に込められた、

「戦争の目的、すなわち我々が戦う真の敵は、戦争そのものである」。

 というものだった。

 非常に複雑ではあるが、たしかにひとつの的は射ている気がする。

 潜水艦映画にハズレなしとよく言われるが、潜水艦映画は、たしかに独特の疲労感をもたらしてくれる。
 その効果を活かすのは、おそらく極端に非日常的な閉鎖空間なのであろう。

 しかしどこまでいっても所詮はハリウッド。 
 何か根本的な迫力というか、魂に迫るリアリティに欠けるのである。
 それも時代なのかもしれないが、どこか妙なゲーム感覚が透けて見えてしまう。

 そのうえ、いくらヒットせねばならぬからと言っても、いいかげんに、取ってつけたようなおバカなハッピーエンドの呪縛から逃がれる勇気を持たねば、ハリウッドの未来は怪しい。
 
 それなりの疲労感とともに、なぜかそれを上回る不充足感が襲ってきた。

 そこで、たまたまいつか観ようと脇に置いたままだった、別の潜水艦映画を観ることにした。
 つまり立て続けにである。こうなればまさにレクリエーションを超えた修行の感がある。

 今度はハリウッドではなくドイツ映画。タイトルは「Uボート」。

 1982年、今から35年前に、神戸の映画館『甲南朝日』で観て以来二度目になるが、元は2時間15分だったのだが、今度のはディレクターズカット版で、なんと3時間半もある。

 それで記憶違いのシーンや、記憶にないシーン。さらにストーリー展開の順番の前後などがたくさんあってかなり混乱した。

 アメリカ映画とは比較にならない、圧倒的にリアルな艦内描写に息が詰まりっぱなしになる。

 先のアメリカ映画の原潜の中は、動力も電力も豊富で、艦内も広く、乗組員の服装をみても冷暖房完備なのがよくわかる。

 かたや第二次世界大戦下のUボートは、狭く暑苦しい艦内、士官室でさえカラダをよじらせてすれ違わねばならないほどの狭さ。

 サウナのような機関室、非番の者と2人が交替で使用するベッド。毛布と下半身にはびこる毛ジラミ。

 最も切実に耐えきれない、想像しただけでも恐ろしいのが、50名の乗組員に対してトイレがたったひとつだけという劣悪な環境。

 急速潜航時には、全員がジャングルジムや障害物競走のように、狭い通路を一斉に艦首へと走る。

 敵のソナー探知の音が不気味に響く中、水中深くで、物音をたてないように無言で何時間も身を潜める。誰かが耐えきれず、手持ちの空き缶に放尿する。

 水圧で艦全体がきしみ、やがて壁のボルトがはじけ跳び、水が吹き出し、頭上を駆逐艦が通過し、爆雷が投下され、激しい揺れが生じる。
 
 こちらのテーマは、「極限状態」である。

 主人公でもあるエリート従軍記者が、

「甘やかされて育った自分だから、一度、極限状態を体験したかった」

 と、乗艦を志願した興味本位の愚かな理由を艦長に打ち明ける。

 でも、今ここにある現実こそが極限状態であり、後悔しても時すでに遅し。

 艦長が「すまなかった」と謝るシーンが胸をうつ。

 この映画にも、見え隠れするのは実際の前線のことを何も知らない司令部の愚かさである。

 ここではナチス上層部であり、さらにヒトラー総統をさす。

 けれどもおそらく、前線を熟知している人間が司令部に入ると、さらに危険で愚かな作戦が繰り返される気もする。

 ドイツ側からの戦争映画、アメリカ側からの戦争映画、ソビエトの戦争映画、イタリアの戦争映画、さらに日本の戦争映画。

 それらをすべての大人が観て、真理っぽいエキスを忖度し、いかに戦争が愚かな行為であるかを徹底的に五臓六腑に染み込ませて、リーダーたちは国際社会の流れを調整していかねばならない。 それが21世紀の人類の責務だと私は信じる。

 戦争映画……暴力はキライ、痛い、疲れる、気持ち悪い、見たくない。

 そんな市民は、ついつい平和という言葉の本質の怖さに無知なまま、自分は「平和主義者」だと口にする傾向にある。

 戦争の反対、極北が平和であるならば、逆のベクトルの危険性を見落としていけない。

 一般的な「平和」とは、実は「安全・安心」を意味している。それはそれでいいのだが、私には物足りない。

 ちなみに私は、平和主義者でも幸福主義者でもなく、自他共に認める不良中年であるから、当然快楽主義者をめざしている。
 
 面白くなければ意味が無い。驚いてこそ我が人生。退屈な毎日よりは痛い刺激の方がいい。
 もともと酒はのまないし、薬物や覚醒剤には絶対に手を出さないが、映画を観て、本を読んで、音楽を聴いて、歌を書いて、コーヒーを飲むのである。

 戦争が始まらないかぎり、今日も明日も明後日も……。

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