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小説  嘘

【 嘘 】
         久保研二 著            
                 

「ほんまに、久しぶりやな、元気にしてたん?」
 
 加代子は「うん」と小さくうなずいた。
 
 待ち合わせ場所であるラウンジのテーブルをはさんで腰をおろし、脱いだジャンパーを背もたれにかけ、正面に向きなおって私が話しかけた。
 
 加代子はかなり無理をしたような笑顔をつくりながら、

「今日のシャツも、ほんまに派手な柄シャツやなぁ、前から不思議なんやけど、どこで買うのん? そんな派手なシャツ」と、会うたびきまって最初に言う話題を振ってきた。

「ウチの店の子がな、いつもわざわざ商品を俺用に取り置きしてくれるんよ、俺が視察で店に行った時に、社長のために店頭に出さずに事務所に保管してますよ〜ゆうて猫みたいな声で言われる。
 
 それで本音を聞くとな、社長以外にこういう服は似合う人がいません。気持ちよく売上に協力してください、と、こう言うわけや、そんでもってどんどんたまるんよ、俺のコレクションが」

 そこでウエイトレスが注文をとりに来たので、躊躇せず私はブレンドを頼む。これはほとんど条件反射になっている最近の私の習性だ。それほどこのところ喫茶店での打ち合わせが多い。

 加代子は一瞬、間をあけたが、その後飲み物をきちんと味わう余裕がないと判断したのか、あきらめた様子で「私も」と答え、それがウエイトレスに対し、やや冷たい言い方になってしまったのを後悔したに違いなく、すぐに表情を和らげて「同じ、ホットでね」と顔を見て優しくつけ加えた。
 こういう些細なところでの気配りも、加代子の心地よさの一つである。
 
 ウエイトレスが水とおしぼりを置き一礼して引いたあと、軽い緊張感がテーブルの上に居座ってしまった。
 
 やはり冒頭の加代子は空元気だったのだ。

 身動きができないでいる。
 唇がややとがっているのだが、容易に動きだしそうにもない。

 仕方がなく私の方から切り出す。

「どうしたん? 加代ちゃん、それでぇ……話っていったい何よ、先に言うとくけど、今も昔も将来も当分金はないぞ」

「木戸さんにお金を無心するほど、私まだ、おちぶれてないって」

「何やそれ、えらいひっかかる言い方やなあ……まあ事実やからしゃあないけど。

 そやけど、そんな減らず口を叩けるようじゃ、今日の相談ごとも、たいしたことないやろっと、こっちも気が楽になるからな」

「案外そうと、ちゃうかもやで」と、加代子の唇の端が本日初めて片方少しあがった。

「俺と加代ちゃんの仲やから、まあ遠慮せずに話したらええやん、今さらお互いガキでもあるまいし、必死で隠さなあかんこともあんまりないやろ? 
 それに、今までも加代ちゃんのかなり危ない妖しい話もぎょおさん聞かされてきたしな」

 ここで私はわざと意味深長な、いやらしい笑顔をした。

 加代子はほんの少し、むっとふくれたが、すぐに表情筋を復元した。

「なあ加代ちゃん、たいした力にはなれんと思うけどな、しゃべるだけで少しでも楽になったらそれでええんとちゃうかいな」

 そう言いながら、私は視線をガラス越しの街路樹にはずした。

 今はほとんど見ることもなくなった、初期型の赤いシティが街路樹をバックに走っていった。マッドネスのムカデダンスのCMで話題になった本田の車である。

「懐かしいなぁ……」

 このように、私は当然事態を軽くとらえていた。
 多少重い内容の相談であっても、自分には無関係、所詮は他人事だという甘い距離が加代子と私との間に存在していたからである。

 加代子もきっと私に対し、真剣に何か具体的かつ即効的な救いを求めているのではなく、たまったストレスのちょっとしたガス抜きこそが目的であり、そのための気軽で安全な話し相手として私に白羽の矢がたっただけなのは、容易に推測できた。

 実際今までもそういう話が二人のあいだで交わされたことが多々あった。
 その中には異性間ではちょっとそこまでは話さないだろうと思われる、かなり性的に際どい話も少なからず含まれていたのだ。

 それがさっきの意味深長ないやらしい笑顔の所以である。

 けれどもほんのわずかな懸念は、私に対する恋愛感情の告白だ。

 男女の意識が思いもせぬ相手とひょんなことから盛り上がる不思議さを、何度もそばで目撃しながら、また自らもそれなりに体験している。

 しかし相手が目の前の加代子に限っては、どう考えても、ここ数年のつき合い方を冷静に鑑みて、その確率は限りなく低い、というか九分九厘ありえない。
 
 加代子がようやく口を開いた。
 思い切ったわりには笑みがこぼれていた。

 ガラス越しの日差しが陰陽をつけ、心なしかポッと顔に陽がさしたように見え、私は素直に、生まれて初めて、加代子を美人だなと認識した。
 心のどこかに一瞬だが小さな灯がともった。そしてそのわずかな変化を、たしかに私は自覚したのだった。

「わたし、好きな人ができてん」

「ほう、それはめでたいな」と受けつつ、やはり恋愛話だと判明し、そんなことはないのはわかっているが、どうせなら相手が自分であって欲しい、そうであればどんなにひょうたんから駒で今日の気分が高まるだろうと無責任に考えた。

 とはいいながら、現実的に、もしも本当にそうなればなったで、かなり状況が複雑となり、厄介な面倒事が増えて困る。
 だいいち、あちらこちらで妙な言い訳をしなければならない。途端に数名の女性の顔が同時に浮かんだ。

 それでもこういう絵に描いたような助平心は、私のような三枚目の場合、おいそれと冗談の域を出るものではなく、その時点の危険度は数値にして約3パーセントで、消費税よりも少ない。

 まだまだ信号機なら余裕で緑だった。
 それは加代子の顔から緊張感がすっかり陰をひそめていたからでもある。

 もしも相手が私であった場合、ここから先が最も緊張する場面なのだから、このリラックス感は論理上、成り立たないのである。
 
 加代子は明るい表情を維持しつつ、しかし気分も口調も跳ねずに淡々と語り始めた。
 
 それは概ね次のような内容だった。
 
  相手は以前からよく知っている友達であること。
  当然性別は男であること。
  自分より少し歳上で、何かと頼れること。
  長時間一緒に居ても、違和感がなく疲れないこと。
  話が多彩でおもしろく、もの知りで、話していて退屈しないこと。
  毎回別れ際に、まだ話し足りないという未練が残っていたこと。
  今までも何かと相談に乗ってもらったことがあること。
  ずっと純粋に友達としてしか思わなかったのに、最近になって自分の心にその男が棲みだしたこと。
  まさかその相手に恋愛感情を抱いてしまうとは、夢にも思わなかったこと。
  それでも気がついた時にはすでに自分の気持ちを止めるのが手遅れであったこと。
  振り返って考えると、自分が迷った時はいつもその人がそばに居てくれていたこと。
  相手が全然気付かぬうちに、自分だけが一方的にどんどん好きになってしまったこと。
  その結果どうしても、一刻も早く告白しなければ気が狂いそうな状態に陥ってしまったこと。
  あれこれと分析するに、かなり運命的だとしか思えないこと。

 
 以上を私が一切腰を折らずに、ふんふんとしか返さない中で、加代子はひたすら語り続けたのだった。
 
 加代子が投じた球は遠くから始まって、少しずつ私に距離を近づけてきたように思えて仕方がなかった。
 常に思い込みだという戒めを自身に連発しつつも、私の信号機はほどなく黄色く点滅し始めた。
 いつ赤に変わってもおかしくない状況だった。
 ほんの少しだが手のひらが汗ばんでいる。
 自分の唇が少し乾いているのが実感できる。
 鼓動もやや早い。
 体温も気になる。
 血圧が上昇する。
 血糖値も気になる。
 しかし唾液を飲み込む音だけは絶対に聞かれまいと、強く念じた。恥ずかしさの取り返しがつかなくなる。
 
 一方、自分がいったい何を焦っているのか、ついさっき加代子のことを美しいと思ったではないか、異性として認識したのではなかったのか、出来れば好かれたい、もっと近付きたい、本当は手に入れたいのではないのか……自分の欲望の本音すらも今は整理をして考える余裕がなくなった。ただ無性に焦りだけが一方的に膨張していったのである。
 
 私の少し乾いた唇に、もはや味などどうでもよくなった珈琲カップが触れたまさしくその時。加代子はそのタイミングを待っていたかのように滑舌よく発音した。

「わたし、そもそもあんまり面食いやないねん」

 そんなことは知ったことじゃない。

「それで、その人、妻子持ちやねん」

 ほらまた一歩近付いた。

「その人な、何でか、いつも、柄シャツしか着いひんねん」

 これは、まぎれもなく決定的な一言であった。

 私はこの言葉を聞いたとたん、加代子の次の一言におびえて身構えた。

「今私の前に居る人やねん」という想像的合成音が、たっぷりリバーブがかかって私の後頭部を襲い、もみあげの毛を両手でつまんで上に上げ、そのまま頭を左右に激しく揺らした。

 リバーブのつまみの目盛りは9である。
 キーンという耳障りなハウリングが起こっている。
 その言葉が実際に飛んで来たら、私はこの狭い店内でいったいどう身をかわせばよいのだろうか。

 もう少しで珈琲をこぼしそうになりながら、カップをそっとソーサに戻した。
 
 微妙に自分の指先が震えている。
 同時に胸のカラータイマーが点滅していた。
 ウルトラマンのようにM78青雲に帰りたかったが、空を飛べない未熟な私は仕方がなくあきらめ、そこで軽く覚悟を決めた。
 
 覚悟というものはそもそも重いという前提がある。
 しかしこの時ばかりは恥ずかしながら軽い覚悟でしかなかった。
 いや、敗者のあきらめとでも言おうか……こんなこととは知らずに加代子の「お茶おごるよ」の電話の声につられて、ホイホイと出かけてきた自分があまりにめでたく滑稽に思えた。
 まるでゴキブリホイホイに吸い込まれたゴキブリのようではないか。
 
 覚悟が軽いためか、加代子の目を直視できず、照れ隠しにテーブルの隅のおしぼりの繊維のほつれに視線と指先を逃がす。
 
 こうして、私は完全に言葉を失うに至った。
 途絶えた会話が空白の原稿用紙の升目に凝縮されたまま万年筆のペン先が乾いた。

 今いかに動いても状況を好転させる自信がない。
 ただただ自分の本日の脇の甘さを悔いたのだった。

 ここまであえて加代子のペースに任せてみたのだが、結果的にそれが裏目に出たのは間違いない。
 もはや加代子が完全に会話の流れと行先の主導権を握ってしまっているのだ。
 
 私は事態を甘く見すぎていた。ここからの巻き返しは、たとえ成功したとしても、どうしても大げさな不自然さを伴う。

 今から思えば、加代子の「好きな人ができた」の第一声で勝負がついていたにちがいない。
 そのフレーズを、簡単に加代子に言わせてはいけなかったのだ。
 
 野球に例えるならば、ゲーム開始早々、決して出してはいけないリーグ最多盗塁数である先頭打者を無神経に歩かせてしまったようなものだ。
 
 そういえば最近読み直した「エースをねらえ」の中で同じようなことが語られていた。

「テニスで勝ち負けを分けるのは、後から検証すると、たった一球であることが多い。けれども試合中、どれがその一球かがわからない。だからすべての球を大切に、集中して打たねばならないのだ」ということだった。
 
 見事に私はその教訓を疎かにしていた。
 宗方コーチの冷ややかな視線を受けても当然である。
 
 とにかくすべてが手遅れに思えた。
 この場に及んでは潔く負けを認めざるを得ない。
 下手にもがいて蟻地獄に落ちるのではなく、冷静に状況を把握し、可能な限りいい条件で敗戦を受け入れるというのが課題であり、私はその部分にのみ神経を集中するべきなのであろう。
 
 いっそのこと本格的に加代子を受け入れてしまい、行くところまで行ってしまうのも手だなとも考えた。
 けれどもそれは所詮ヤサ男の強がりでしかない。そこまでの暴挙ができるほど、私は根が図太くないのだ。

 事態はまさに、勝ち負けが確定した後の集結に向けた政治的交渉を求めている段階なのである。
 
 
 ついに時が満ちた。
 その時歴史が動いた。
 加代子がいよいよ王手をかける「間」が訪れたのだ。

 責める加代子も受ける私も共有できるタイミングである。
 音楽でたとえればデュオの相方のようでもある。
 互いがわかりすぎるほどにわかる「此所(ここ)」という瞬間。まな板の鯉ならず、まな板の恋である。

 私の「恋」も「鯉」のように、呆然と口をあけている。
 形は違うがヒゲも生えている。
 そしていまだに私の台本だけが用意されていない。

 おもしろい冗談だと笑い飛ばすには、すでに動揺がばれてしまっている。
 不完全な嘘の繕いは、より取り返しがつかない事態に発展しがちだ。

 進退此所に極まれり。

 いよいよ流れに任せる以外にどうする術もなくなった。
 
 私は心の中で「キャン」と一声発し、ぶざまに贅肉を巻き付けた腹をさらし、手足を広げて、ハイどうぞと、仰向けになった。
 
 その姿を見たせいか、加代子はまるで深呼吸をするように大きく深いため息をついたあと、さらりと言った。

「その人、料理人やねん」

「えっ!」と不覚にも声を漏らしてしまった私は、ズルリと身体が椅子から落ちそうになったのをこらえつつ、手足の隅々から緊張の文字が蒸発していく刺激を感じた。

 寒さに震えながら小雪が舞い散る露天風呂に滑り込んだ時と同じような、ジンジンと血液が体内で民族大移動をする感覚であった。

 どんでん返しの現状と、自分がとり残された位置とを冷静に把握するまでに、さほど時間は要しない。
 そこに存在したのは衝撃と失望が交差点で衝突したあとの砕けたオレンジ色のウインカーレンズや、変形してころがったバンパーの角のゴムのように、情けなくあっけない余韻でしかなかった。

 スタイルは全然異なるが、店先で買うか買わぬか散々悩んだあげく、やっとの思いで買おうと決意してポケットに手を入れ、財布を忘れたことに気付いたような感じにも類似している。

 とにかく、一旦落選と決まれば、開き直って悪しき流れを変えねばならない。
 
 一度バッターボックスをはずして、ズボンをあげ、ベルトを締め直し、滑り止めをグリップに吹きかけフォームを正し、首を左右に折ってポキポキと音を鳴らし、それから顎を引いてピッチャーの目を見据えて構えなおせば、仕切り直しは完了だ。
 
 好球必打、もはや迷いは不要。
 さっきまで唸りをあげて向かってきた豪速球も、今はボールの縫い目まではっきりと見えるから世の中不思議だ。

 私は脇が開くことだけに注意を払いながら鋭くバットを振りぬいた。
 キィンという音をたてて白球が三遊間を鍼灸医のように突き刺す。たまっていたランナーが一斉にカゴの中のシマリスのように走り出す。
 
 まことに人間とは、のど元を過ぎれば熱さもヤバさも忘れる生き物なのだと実感した。

 ペースさえ取り戻せば、ごく自然に舌にミシン油がさされる。
 しかもしばし押さえられていた鬱憤に対する反動もある。
 ピンチから逃れると今度は被害者意識も顔を出す。
 本気ではなくても少しは怒りたくもなる。

「ちょっと待った加代ちゃん、ええかげんにしいや。

 わざわざ正月早々、俺をここまで呼びだしてやな、わかってるか? 
 なんやかんやゆうても片道1時間はかかるんよ、ここまで来るのに。

 これは喋るつもりやなかったんやけど、実は途中運転しながらオシッコがしたくなった。
 どうしよ、我慢できひん。ガソリンは満タンにしたばっかりやし、スタンドに寄る言い訳がないがな。
 これからお茶を飲むのにコンビニ寄って、トイレのためにだけパンや紙パックのちょっと高めの珈琲買うのもなんやし、だいたい最近わしがお気に入りのんを、セブンイレブンもあんまり置いてない。
 かと言って何も買わずにトイレだけを借りるという図々しさは俺の辞書にはない。
 それよりも、少しでも待ち合わせに遅れたら加代ちゃんに悪いし……

 そんなことをあれこれ考えながらやで、はるばる駆けつけたんやで、ガソリン炊いて、タイヤすり減らして、阪神高速ずっと210キロで飛ばしてんで、オシッコ我慢しながら……

 膀胱炎になったらどうすんのよ、それにこう見えてもそんなに俺、暇人やないんよ、そういう歌あったやろ? ジョン・レノンの ♪暇人〜やる〜こと〜ない……」

「それイマジンやろ?」

「まあ、そうとも言うけどな」

「そうとしか言わへんて」

「まあ、それがやな、おりいって話しがある。会って顔見て相談したいことがある。ましてどうしても今日やないとあかんというから、はるばるやってきた。こうしてお茶を飲みにね。
 そりゃ、まあこんなきっかけでもあって、エイッ!と意気込まんと、なかなか会えんけどね、お互い暇やないし」

「それは、そうやな」

「それで加代ちゃんからの話はといえば、好きな男がでけた。とこうきた。
 それはそれで大いにめでたい。
 そやけど、その後の話で、その相手というのは、なんか心当たりがある。どこかで知ってる奴の気がしてきた。
 
 話が進むにつれ、待て待て、もしかしたらそれは毎朝洗面所の鏡で見てる、ヒゲが濃い、胡散臭い奴やないのか? いやそんなはずはない、あろうはずがない。まさか加代ちゃんに限ってそのような愚かな選択はせんやろ、それでも次から次へと限りなく俺に近づいてくる。
 
 限りなくというからには百パーセントではない。

 降水確率ゼロパーセントと、絶対に雨は降りませんというのと、どこがどう違うのかが今だに理解でけへん俺やけど、この件においてはまだ違う可能性もわずかやがあるというのはわかる。 
 
 それに、自分やと思ってそのつもりで居て、そのあと加代ちゃんに、そんなわけないやん、冗談やないわよ、ありえんわ、アホちゃう? 自惚れもほどほどにしてや、うっそ〜信じられへん、そんなん考えとったん? もっぺん鏡で自分の顔見たら……なんか言われたらそれこそ傷ついて落ち込んで、立ち直られへん。
 
 それでもやで、あげくの果てが柄シャツときたらもうこりゃ本命やん。

 そういや、そもそも今日会って最初に、柄シャツのことを加代ちゃんは俺に話した。

 いつものことやけど、今日はなんかこう、言い方というか、湿気の感じが少し変やった。
 なるほど、あれが予兆やったんや……そこまで考えたで。
 読んだがな。
 そうやろ? 
 当然やろ? 
 流れからすればどう考えても、どう分析しても、その結末、相手は俺やろ? 
 俺でないとおかしいやん? 
 シナリオの構成上も。
 
 それがやで、最後の最後でスコンと落として、完封目前のピッチャーが9回裏ツーアウトフルカウントからの逆転サヨナラホームランくろて、完封どころか負け投手になってもたようなもんやろ、

 そりゃあ、あんまりにもひどいんとちゃうかえ? そうおもわん? 俺の気がおさまらんもん。

 こうなったら、オッパイの一つでも触らせてもらわんと、割があわんのとちゃいまっか?」

「オッパイは一つだけでええのん? ちなみにもう1個在庫あるけど」
 
 加代子は、さっきまでとは大違いの「してやったり」という顔で、両目を大きく開いて、いけしゃあしゃあと続けた。

「でも木戸さん、ホンマのこと言うたら、内心ホッとしたやろ? 助かった、と思ったやろ?」

 図星には違いないが、私がそのままそれを認めるのはあまりにしゃくに障る。

「そんなことはないで。そりゃ、どんな女の子からでも『好きや』と言われれば男は嬉しいもんよ。
 それは自分が認められたということやからな。

 そもそもワシほどのええ男でさえ、ある日突然スランプが来たらどうしよっと、ふと不安になることもあるんよ。

 そやから常に誰かから言い寄られる状況を継続させておくことは大事やな。
 ファームがしっかりしてるチームは強いからな。まあワシレベルのええ男は世の中に二人とおらんのも事実やけど」

 少し驚いた顔をした加代子が、

「あれっ木戸さん……ほんなら私が木戸さんに、どうしてもつき合って欲しい、と言えばよかったん?」

「いや、そういうわけでもない。事態はそんな単純なもんやないんや。それはそれでその後いろいろ考えなあかんからな、でもさっきの流れはやっぱり、相当がっかりしたで、俺」

「うれしいな」

「ん?」

「そうして木戸さんが、私を友達としてだけやなくて、ちょっとは女としても見てくれたというのがね、なんか嬉しいんよ。
 それは私が、木戸さんにとっての異性、一人の女として認められたゆうことやからね。
 そういうのん嬉しいんよ、女としては……めっちゃ」

 この「めっちゃ」という発音を境にして、二人の間に張り詰めていた氷が溶けて、空気が一気になごんだ。

 そして鼻歌気分でいくつかのトンネルを抜けているうちに、チェーン規制はいつしか解除されていて、曇天のところどころに、青空さえものぞいていたのだった。

「とらぬ狸の皮算用やった?」

「狸か狐か豚まんかは、わからんけどな」

「豚まんって何よ、私のこと?」

「ちゃうちゃう、加代ちゃんは豚とちゃうがな、豚まんの皮って白くて旨いやろ? まあそれは置いといて……。

 とにかく、話の途中から、もしかしてワシやないかと思い始めてやな、いよいよヤバイな、これはどうやらワシ以外にないなと踏んで、知らぬが仏でノコノコやって来た自分を恥じてたんや」

「でも、もしもほんまに私の好きな相手が木戸さんやったら、どうしてた?」

「そりゃ、聞いたからには、真面目に考えんといかんから、ちゃんと受け止めるけど、でも困ったやろうな、複雑に」

「どんなふうに問題があるん?」

「加代ちゃんが本気やなければそれでええんよ、遊びなら。
 でももし本気やったら簡単には受けれんやろ?
 
 だいたい今の状況で俺と関わりがある他の女の子らとの複雑な問題が生じるからな。

 そもそもそれ以前に、加代ちゃんは、すっかり忘れてるかもしれんけど、俺一応はひと夫なんよ、漢字で書けば、「人夫(ニンプ)」になるからややこしいけど、人妻に対するひと夫。
 これだけでも、ほんの少しは問題あるやろ、俺の場合は耳かき一杯分ぐらいやけど」

「それは何よ、私がほかの木戸さんのガールフレンドたちと、奥さんも含めて、同じようなつながりがある兄弟姉妹になるということが問題なん? 肉体関係的に、丼(どんぶり)みたいな」

「丼(どんぶり)って、難しいことば知ってるなぁ」

「使い方違うかった? 親子丼ゆうたら、母親と娘の両方食うてまうことやろ? それとも、そうそう……大奥、ハーレムかな?」

「いやいや、まあ、そんなんと違うて、なんか大きく勘違いしてるなぁ加代ちゃん。
 
 どっちかというと千石イエスが近いんやが……冗談冗談……ちなみに、俺を好きやとはばからず公言して俺とからんでる女の子は、誰もが例外なく本気やないからな。
 言ってることは、ほとんど嘘、口から出任せ、その場の中村ノリやね。
 
 まあまあ……そういう女の子らが『木戸さん大好き〜』ゆうて、ちょっと深い話をしても、もしもこっちが本気の素振りのかけらでも見せたら途端に態度を豹変させよる。

 すぐに服の上に、湖を見下ろす絶壁にそびえるヨーロッパの古城に飾ってあるようなごっつい鎧を着こみよる。
 
 女が一旦そうなると、今までみたいに部屋で二人で居て、肩が凝るからゆうて気軽に上着も脱がんようになる。

 そういうのはギスギスしてかなわんので、双方が一定の中立地帯を設けてやな、そこをはさんでキャッチボールをするわけやな。

 そこに明確な距離があるからこそ、大胆な球も投げれる。平気で首もとからブラジャーのひもなんぞをのぞかせる。

 たまたまなんかの拍子に胸の谷間から干しぶどうが見えたり、椅子が深くてスカートの奥が見えても、

「あっ、もしかして今見えた?」

 ゆうだけで済むし、自分の口から、

「見えても減るもんじゃなしね〜」
とか、

「目の保養になった? それとも毒になった?」とか言ってくれるわけよ。

 わかるかな、そういうまったりとした安心感こそ大いなる信頼の証しなわけよ。
 
 そやけどあれはあかんで、あれは別。
 会うなり「あ〜腰が痛〜い。今日は生理で血ドバドバ」とか言うのん。
 あれはあかん。苦手やねんから、男はそういうのんは……なんぼなんでも性を放棄したらあかんよ。
 カレー食いながらウンコの話するみたいなもんやもん。

 それと、ゆうとくけど俺は全員と、これまた例外なく変な関係に陥ってない。
 少なくとも、陥ってないことにしてるし、そういうことになってる。

 だからおもしろおかしく、まったく自由にみんなとつき合えるし、一人の女の子の前であっても堂々と他の女の子を好きやと言える。

 相手がたとえ人妻でも超熟女でも女子大生でも問題無い。
 未成年には興味ない。
 とある歌手の子なんかとは、婚約までしてる。
 そのかわり来世でという条件やけどな。

 相手も俺の情熱に負けて、最初かなり慎重やったけど先日ついに、それなら仕方がないと、来世での結婚を承諾してくれた。
 
 2年がかりのプロポーズやで、なんせ俺の現世では、常時予約がキャンセル待ちの状態やからな。

 まあ、そういう中で、もしも誰か一人と一線を越えてまうと、オセロの原理で、全員とせん限り収集がつかんようになる。
 それもまた極めてというか、そっちの方が難易度が高かったりするわけや。
 
 決意があっても、体力的、物理的な問題がからんでくるからな。
 
 全部とするか、それとも誰ともせんかが、実は大事なとこやな。

 さっきチラっと触れた千石イエスの場合も実はそのあたりがポイントやな。
 
 俺は奴の気持ちも、まわりに付き添って離れんかった女たちの気持ちも理解できるんよ。
 
 理屈やないからな、男と女は……まわりから見て到底理解できひんような湿気や温もりが一番深いんよ。
 
 目の前の現実のパワーは魂に直結するんやな。
 何しろライブよ、生きてる生の人間がそこにおるんやから……人生そのものやで。

 ええか、ライフに点々をつけたらライブになんねんで、なんか意味深やろ? 
 
 そやからバッタ屋はいつでも、札束を目の前に積んで倒産物件を値切るんよ。
 
 明日の300万か、今この場の100万か、アンタはいったいどっちがええねん? どっちを取るねん? ゆうてな。

 あれっ、話が脱線したな。
 
 とにかくそんなこんなで、一人でもそこに本気の女の子が混じると、バランスが崩れるやろ? そうするとせっかく俺が極めた「ガールフレンドの数に上限なし」の崇高明媚、わかる? 風光明媚とちゃうで。
 崇高にして明媚なるという意味やで。
 その崇高明媚なる原理が崩れるわけや。

 元々がめっちゃ際どいバランスで奇跡的に成り立ってる、どっちかっちゅうと、ピザの斜塔よりもバベルの塔……いやいや、むしろ蜃気楼に近いんとちゃうかと思えるほどやからな。

 それが根本からグラグラと音をたてて崩れて砂漠の藻屑と消え去るわけや。
 
 俺は神戸の震災経験してるからそのへんはリアルなんよ、イメージが。
 
 それと、何しろ人間が本気になればどうしても独占欲ちゅう悪玉が……こいつは蛇みたいな身体しとってな。そう、蛇やねん。キングコブラみたいに釜首を持ち上げる。
 
 ほんでから赤い気色悪い舌を出しよるねん。
 先が二股に割れたイソギンチャクの先みたいなんが、伸びたり縮んだりしよる。こいつはシャレならんぐらいに怖いで。

 昔のホーチミン空港の免税店で、アルコール漬けのキングコブラを売っててな。

 ワシそれに目えつけて、「万引きしたら噛むよ」ゆうポップ書いて店に飾るつもりで何回も買おうとしたんやが、万が一途中で割れて中身が出た時の恐怖を想像したらどうしてもよう買わんかった。
 死んでるのはわかってるねんで、それでも、割れたあと片付けるん、どんなけ怖いか。
 しかも生ゴミで出さなあかんやろ、ガラスの破片と分別してやで……ややこしいでほんまに。

 まあな、そういうことで、独占欲が一旦芽を出すと必ずややこしい不充足感がうまれる。
 
 それがうまく行かんかったり、先が見えんかったら、惚れた方が精神的にキツいからな……惚れた方が負けというのが、男女の常識やろ? 

 場合によったらせっかくの酒池肉林が血みどろの修羅場になるかもしれんやん。

 安倍川餅が阿部定餅になったらかなわん。
 切られたたら痛いもん。
 チャックではさんだだけでも飛び上がるのに……そんなんわからんやろ自分ら、男はな、そういうことでいろいろあるんよ、一筋縄でいかん大人の事情が……」

 半ばくだらない話であるにもかかわらず、加代子は一言一句を聞き漏らすまいと思っているような、実に興味深そうな顔つきで私の話を聞いている。
 
 一通り私の戯れ言を聞き絞り切ったあと、加代子は私に、落ちついて質問した。

「ところで、やっぱり、男と女の純粋な友情って、ありえないんやろか?」

「難しいかもしれんな」

「私はね、木戸さん。相手が木戸さんやったら、ずっと純粋な友達で居れると思ってんけどな」

「そうかもしれんな。ただ俺は、男でも女でもしばらくつき合えば、相手のええとこだけをクローズアップ現在して見る癖がある。
 
 単純に言えば惚れやすいわけやな。
 そやから時間が経てば経つほど、相手の欠点が、容姿も含めてやで……匂いは嫌やけどな、それがどんどん小さくなっていって、しまいにはどうでも良くなって、ええところばっかりが残ってくるんよ。
 
 そこで相手が女なら、そこから先は無限に異性としての魅力として増殖してくる。
 そういうのは、すごくわくわくするし、楽しいことなんや、俺にとっては特にな」

「それで、その女の子が、たとえば誰かと結婚でもしたら木戸さんはどう思うん? 裏切られたと思うん?」

「裏切られたとは思わんけど、真剣にがっかりするで。そうでないとそれまでの意味がなくなるやん。
 一瞬やけどな、すぐに立ち直るし致命傷にはならんけど。
 それでも、たとえ一瞬にせよ真剣にがっかりする。
 それが俺の最低限のこだわりなわけやな、自分と交わした約束事。
 この世のすべての女性に対する礼儀やな、俺なりの」

「ふ〜ん、そうなんや」

「そうそう、この前テレビでええことゆうとった。
 鶏専門の肉屋のおばはんやけどな、その肉屋は毎朝一番、夫婦で養鶏場にニワトリを買いに行くんよ。
 それで店に持って帰ってから、絞めてさばくんやけどな、そのおばはんが言うには、

『私らは、その日必要とされるぶんしか、ニワトリを絞めへん。それが、神さんとの約束なんや』と、こういうわけや。
 まあ、俺も同じような気分やな」

「なんか全然それ、話がつながってないと思うけど……関連してるのん、こだわりゆうとこだけやん」

「いやいや、だいぶんジャンプして、三回転半ひねってるけど、ちゃんと綺麗に着地してるって……ちょっと心持ち右足が半歩後ろにずれたかもしれんけど、すぐに戻したから」

「そうかなぁ、私の目には、思いっきり尻餅ついてるように見えたけど……まあええわ。

 ところで話変わるけど、男の人って、風俗もそうやけど、好きな相手やなくてもセックスできるやん、木戸さんもそうなん?」

「それは、まあ、個人差はあると思うけど、俺もそういう男の生理は理解できるし、俺もそうやと思うふしはないでもない、こともないかな……ただ案外俺はそのへん過剰にデリケートというかナイーブやから、いざ言う時でも照れや自己嫌悪やで、できひんこともあるやろけどな」

「それ単にEDなんとちゃうのん?」

「ED GO HOMEってか? そんな単純なんやないよ」

「それETやんか、もう木戸さん笑けるわ。それより、もしも誰かに迫ってこられたら、木戸さんやったらどうするん?」

「昔やったらうまいこと逃げたやろな、ごまかしまくって、ギャグでも連発して」

「今やったら?」

「最近は少し考えが変わってきたんよ、俺もだんだん歳をとってな、もう40やからな……まわりの女の子の相場も、年齢が相対的に高騰してきてるわけで、初めてやないのは当たり前、明るいバツイチも当然。
 あれれ、これは加代ちゃんもそうやったなぁ……

 とにかく今の女の子は、男のことは一通り酸いも甘いも知り尽くしてるわけやな。
 みんながあらためて口にせんだけで、実際は俺の歳になると男よりも女の方がほんまはエッチやというのも素直に実感できるしな」

「それは言えるかもね。以外に男って淡白やかなら」
 
「それと案外男よりも女の方が、そういうことに抵抗というか、重さを感じてないのかもしれん。
 そういうこだわりみたいなもんは、男がつくった映画や小説だけの幻想かもしれんな。
 
 そやから、迫るという、とにもかくにも恥ずかしいことを女の子がしたんやったら、興奮した振りをしてでも受け入れるのが大人の礼儀かなってな、たとえきっかけがそんな淡白なもんでも、もしかしたらその先に何か新しいもんが見えるかもしれんしな。

 そういうことを少し頭の中で自己解決できて、ようやく一皮むけたような気がする」

「でもそうなれば、ガールフレンドとしては継続しにくいわけやろ? 他の女の子とのバランスも崩れて」

「そういうことになるな。
 でも、正直そういうケースがまだないから、俺もその場になってみんと、実際どうなるか見当がつかんよ。
 一人の女の子の肉体に本格的に溺れることができるんやったら、いっそ溺れてみたいというのも本音やな、安物のポルノ映画みたいに。
 
 実はそういう領域に対するコンプレックスもある。
 うん、これは大いにある」

「相手が私やったら、木戸さん、溺れるとこまでいかんでも、とりあえずはその気になれる?」

「それはわからんよ、たしかに加代ちゃんはおもろいし、素敵やよ」

「ありがとう、お世辞でもうれしいわ、おもろいのは余計やけど」

「そやけど、エッチになれるかどうかは、なんともわからんよ」

「私、めっちゃ美人やないかもしれんけど、不細工やない自信はあるんよ。
 そやけどスタイルそんなにようないし、胸も小さいし、あんまり男好きする身体やないという自覚は十分にあるねん」

「そんなもん、見たことないからわからんがな」

「今度見せたろかいっぺん、モザイクなしで。
 裸になったら案外幼児体型なんよ。
 こんなん好きな男やったら、かえって不気味やわ」

「いやいや、そういうのとちゃうよ、やっぱりシチュエーションが問題やな。
 
 なんぼ女の子が素っ裸でも、堂々としてて恥じらいもなく、隠しもせんと露天風呂にでも一緒に入っとれば、そんな気にならんやろしね。

 噴水吐いてる大理石のヴィーナス像みたいなもんやもん。
 重要なんは、その時の雰囲気や情緒……

 そうそう、一番肝心なのは情緒やな。
 
 そやからやっぱりその場になってみんとわからん。
 情緒は言葉でなかなか表現できん。
 そこに行くまでの食事や会話なんかも影響するよな。

 メザシを食うたんか、鮎の塩焼きを食うたんか、それとも、なか卯で牛丼食うたんか、こだわり玉子丼を食うたんか、ココイチで済ませたんか、インド料理でナンと一緒にスパイスカレーを食うたんか……そういう微妙な差が大きくものをいうんや」

「全然微妙とちゃうやん?」

「そやけど、そういういろんな要素が影響するんよ、たとえ相手が誰であったとしてもな」
 
 加代子はさっきよりも明らかに真剣な顔つきをしている。

「それなら、私とでもセックス出来るかもしれんということ?」

「理論的にはそういうことやな、物理的には、どうなるかわからんけど」

「じゃあ木戸さんは、私としたい、と思うことある?」

「正直、今まではそんなこと考えたこともないな、20歳前にでも出会っとったら、ちょっとは想像したかもしれんけどな。16,7歳の男なんか、動物園でシマウマのケツ見ても興奮するからな」

「そんなに私の身体って、魅力がないのかなぁ?」

「そうやないって……女の子は誰でも魅力的やと思うで、男とは大違いや。女に比べたら男なんかカスやで。
 若い頃ストリップ見るたびにつくづく実感した」

「そんな、ストリップよう見に行っとったん?」

「音楽を提供してたんやがな、踊り子が脱ぐ時の曲をつくっててん。
 それで、とにかく、女の身体はそれ自体が芸術品や、お世辞でもなんでもない。

 卑猥な気分を味わうつもりが、目の前の女体に照明があたると毒気を抜かれて、そのあまりの美しさに湯当りしてまうんよ。
 
 踊り子が決めのポーズをとったら、思わず感動して心から拍手したりな。

 俺だけやないで、頭がつるつるに剥げたオッサンが……案外そんなオッサンに限って、どっかの小学校の教頭先生とかが多いんやけどな。
 
 その頭がつるつるに剥げたオッサンが、踊り子の股間を見つめながらやで、感極まって半泣きで拝んでる姿を何回も見たよ。完璧に感動しとるねん。
 
 そんなこと、よっぽど圧倒的な感動でないとできんよ。おそらく全然卑猥な雰囲気やないんよ。もういつ死んでもええという目をしてな、
とにかくあまりに神々しいんやろな、生身の人間が……女体の存在、その息づかいそのものが芸術やねんな。

 それに比べてやで、サウナで腰掛けて自分と隣のオッサンの腹見てみ、ついでにその隣のオッサンのんも見てみ、今すぐ死にたくなるもん。
 
 まるでトドやで。
 天王寺動物園行って、ライオンでもトラでもガゼールなんかとでも比べてみ、あいつらシャツもパンツもはいてないけど、全然不細工やないスッキリした身体してるで。

 そらたしかに肉食の奴らは臭いで、野獣の匂いがする。
 けどそれでもスタイルは醜悪やないで。

 同じ哺乳類の狸でもシロナガスクジラでも、醜悪な体型やないやん。イルカなんか完璧やろ? 

 それに比べて、裸になった中年の人間の男ほど醜い生物はないで。

 そのくせ、難民かなんかで、栄養失調になった男の身体が綺麗か? 
 仁王さんに踏みつけられてる餓鬼みたいに、水腹で腹だけふくれてるやん。
 
 他の動物、そんなことないやろ? 

 多分銀河系で一番醜悪な生物やと思うな、中年の男ゆうのは。
 だから俺は一生ゲイにはなれん。」

「なるほど、それはわかる気がするわ」

「それと女の子の可愛らしさや美しさは、至近距離、だいたい20センチ以内で見る時と普段とで、ものすご違う場合がある。

 俺は近眼やというのもあって、どっちかというと近くで見て可愛い、綺麗な娘が好みやな。
 
 眼鏡をはずしたら、近くやったら毛穴まで見えてまうもんな。
 毛穴から出てるか細い産毛の生え方や、毛穴と毛穴の間の皮膚の染みやそばかす、逆にきめ細かさの上品さなんかを楽しんだりできる。
 
 ド近眼やからね。普通の視力の人が虫眼鏡で見てるようなもんやな。
 そこまで見えるとどんなに化粧をしてごまかしても、化粧の粉の粒子が見えるし、皮膚の下までが透けて見える、時にはヒダの内側なんかもな」

「エッチ!」

「ちゃうがな、心のヒダやん。ほんまに普段は気付かんような内面が透けて見えるんよ」

「でもそうやねんな……木戸さんはそういうとこ、たしかに深いよな。
 
 そんでもってあんまり卑猥やないねんな。
 さりげなく限界という名前の万里の長城みたいなんがあって、その上を歩きながらもの言うから、ついついこっちも普段は男の前では絶対言わん下(しも)の話なんかもしてしまうねん。
 
 気が緩むねんやろな、相手が木戸さんやと、なんとなく」
 
 
 加代子は妙に感心して、そのまま頷きながら黙っている。

 それを見た私はふと不安になった。

「加代ちゃんの今回のんは、もしかしたら、ツライっちゅうか、悲しい系の恋なんか?」

 加代子は小さく首を傾けながら答えた。

「ううん、違うけど、そやけど、ようわからんのよ……」

「もう告白は、したんかいな、自分の気持ちを、相手に」

「微妙やね、すっごい、そこんとこが微妙」

「何じゃそりゃ?」

「だから、告白になったかどうか、相手にちゃんと伝わったかどうか、それもまだようわからんのよ。
 
 とにかく今回のは、私にとってもすっごい特殊なケースやねん。
 私もこんなパターンは、生まれて初めてなんよ」

「どういうことや?」

「複雑なんよね、こっちはこっちで……そやからわざわざ、木戸さんにご足労いただいてやね、今日こうしていろいろとインタビューしてるんやないの」

「なるほど、加代ちゃんは、もともとインタビューが仕事やったもんな、俺すっかりそれを忘れとった」

 私は本日初めて加代子の、インタビューという意図が理解できて、心なしか安堵した。

「木戸さんと初めて知り合ってから、何年になるやろ?」

 急に加代子が話題を変えた。しかし別に不快な転調ではない。

「かれこれ5年くらいかなぁ……」

「5年か……、木戸さんにはいっつも、変な気を使わんでええやん」

「あのな、それも言うなら、気を使わんすぎやと思うけどな」

「まださっきのこと怒ってるのん?」

「いいや、あきれてるだけや」

「私、これは、今までつき合ってきた男の全員に言えるんやけどな……男って例外なくヤキモチ焼きで、女の昔のことって、口では気にせえへんと言いながら実はめっちゃ気にするやろ? 
 
 そやから、それなりに男を好きになったら、私、早いうちからやっぱり、相手にうまいこと嘘をついてあげるんよ、どんなけ心が広いと思えるような相手にでもね。

 嘘ついてあげんとあかんことが、やっぱり女やったらいっぱいあるやん。

 私、別にそんな言うほど無茶苦茶してきたわけやないよ。
 でも仮にたった一人とでも、ほんの一部でも、過去に自分より勝る男がおったり、特に相性がええセックスなんかがあったりな、そういうのがあることを知ると、男ってだいたいがすごく傷つくんよ。

 信じられへんくらいに、ネチネチネチネチ根に持って、何でも言え、オマエのすべてが知りたいんや、ゆうて言うくせに、毎回決まってそうやねん。そのくせ、聞いたあとから、グチグチゆうてから、それでその自分に自己嫌悪したりな。

 それでこっちが、安もんの青春ドラマみたいな臭い芝居せなあかんことになんねん。とにかく邪魔くさい。

 そやから絶対に、先手必勝で嘘をつかんと、後々までややこしゅう尾を引くんよ。ほんまにたまらんで。

 それがやで、相手が木戸さんやったら、そういう心配ないやん。

 私が棺桶まで持って行かなあかんような話を、今までいくつも……木戸さんすでに知ってるやん」

「たしかに」

「そやから、今さら木戸さんにだけは嘘つく必要もないし、嘘をつきたいとも思わんのよ。これってものすっごい大きいことやと思わん?」

「それは、嘘をつかんと、ホンマのことだけを言うても、加代ちゃんが失うものがないか、失っても問題がないからとちゃうかい? 俺との場合は」

「さすがに鋭いな、木戸さんは……実は私もそう思ってたんよ、今日ここでこうして木戸さんと会って話すまではね」

 私は、そこの意味がよくわからなかった。

「どういうこと?」

「やっぱり木戸さんとは、これからもずっと、ええ友達でいたいやんか?」

「そりゃそうや」

「こんなに、普通やったら言われへんような話でも、何でか知らんけど木戸さんには言えるやろ? 
 やっぱり貴重な友達よ、木戸さんは私にとって……彼氏はなんぼでも替えがきくけど、木戸さんは木戸さんだけやん」

「彼氏の替えがききすぎるのも問題やけどな。

 でもな、だいたいが、男が女に愛を打ち明けたときの女の答えが、あなたとはいいお友達でいたいわ、というのが一番ショックなんやで、清水の舞台から飛び降りた男にとっては」

「そりゃそうやわな、友達イコール、ノー、ゆうことやからな。
 しかもナイフ突き立てながら、もう片方の手で赤チン塗るみたいなもんやもんな」

「赤チンって、加代ちゃんかなり古いな、きょうび赤チンは塗らんやろ?」

「せめてマキロンかな? 場所が場所なら赤チンでもええんとちゃう?」

 加代子は小悪魔のような顔で言った。

「とにかく、男はあんまりそういう答え方をせんけど、女は必ずと言っていいほど友達という言葉をだすんよ。
 
 そやから、俺ら男からしたら、女がいう友達ゆうのは、すごいネガティブなイメージがあるんや」

 加代子はふっと顔色を変えた。

「そこやねんな、そこ、それやねん。そやから、異性の友達って難しいんやわ、きっと……。

 私が木戸さんに友達ゆうても、伝わり方や重さが違うねんな、たしかに女は友達を彼氏より一段下に置く癖がついてるな」

「でもそれって、普通やろ? 男もおんなじやと思うけどな。
 
 なんやかんやゆうても、恋人より友達は常に下やと思うで。
 そやから彼女ができたら途端に今までの男同士の友達付き合いが希薄になる奴多いやん」

「けど、その上位であるはずの彼氏には、嘘をつきまくってやで、しかも嘘つくのが美徳でもあってやで、相手の為でもあってやで、そのくせ木戸さんみたいな友達には全然嘘つかへんやん。
 それって、やっぱりおかしいわ、絶対矛盾してると思うわ、何かが間違ってるわ」

 加代子のテンションは確実にあがっている。

「そうかな?」

「私、とにかく嘘は嫌いやねん。
 そやから彼氏に嘘ついても、心の中でずっと罪悪感や違和感があって、それで誰かに話して気を楽にしようという甘い考えもあって、それで木戸さんにもいろんなこと正直に話すんやわ、きっとそうやわ。

 でもやっぱり、それっておかしい。
 嫌いなはずの嘘をつかなあかん相手が彼氏やったら、最初からおかしいやん。
 
 そんなとこに至上の愛なんか育つわけないやん。
 一生女のホンマもんの幸せなんか得れるわけないやん。

 私が神さんやったらそんな女を許さんもん。
 許すはずないやん。
 絶対そうやわ、もしもそれが間違ってなかったら、どこかでねじれてるはずやわ。
 それやったら、ねじれをいっぺんちゃんと正常に戻さんと、私、これから先一歩も前に進まれへん」。

 加代子は文句を言いながらも自分の意見に陶酔して妙に納得している。

 しかしそのあと、またまた急に真顔になり、私の目を正面から見据えなおした。

「私、実は木戸さんに謝らんとあかんことがあるんよ」

 私はまったく先が読めなかったのだが、何かとっさに、さっきの緊張感が頭をよぎった。危険を予知する第六感かもしれない。草むらに二十センチほどのマムシが潜んでいる気がした。

「木戸さんと知り合って、かれこれ5年のあいだ、ずっと木戸さんを大事な友達やと思ってたし、今もそうなんやけど、実は1回だけ、そんな木戸さんに嘘をついたことがあるんよ、大事な大事な友達やのに」

 私は胸をなでおろした。

「なんや、そんなことかいな、そらそんなこともあるがな、別に俺、なんとも思わんて、言いたないんやったら、無理してホンマのことを言わんでもええし、そやからゆうて加代ちゃんを軽蔑したりせんよ」

「ほんまに、木戸さんは優しいな、世の中の男が全部木戸さんみたいやったらええのにな、街中柄シャツだらけになって目ぇがチカチカしてかなわんけどな」

「なんやそれ?」

「そやけど、どうしても世の中、正直に言わんと気が済まんこともあるやん。道義的にも人情的にも、個人的にも、将来的にも、生理的にも……」

 私はその続きの〜的と加代子が続けるのをさえぎって、笑いながら答えた。

「わかったわかった、それやったらちゃんと聞くよ、真面目に心して聞くから、ゲロってみいよ、遠慮なく」

「そやけど最初に約束してや、木戸さん、怒ったらあかんで」

「わかった、約束する」

「絶対やで」

「男に二言はないよってに、さあどうぞ」 

 加代子は大きくうなずいて、吹っ切れたような顔をして口を動かした。

「私が、1回だけ木戸さんについた嘘な……実は仕事のことやねん」

「うんうん、そやろそやろ、なるほどな」

 そして、加代子は、ウナギのようにヌルッと言った。

「ホンマは、料理人やないんよ、私の好きな人」        
                            
 
 平成20年1月28日
 同年5月23日、加筆
    

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