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他の人がみんな馬鹿に見えるのは何故? ~仮想的有能感と自己防衛~

はろーこんばんわ。
わたしです。

SkyrimのModを構成し直したいのですが、
労力を考えると大変です。
今のわたしにおける、
大きな悩みと言っても過言ではないでしょう。

さて、今回は他人がみんな馬鹿に見える人。
よくいますよね。

なぜこの人達はそう見えるのでしょうか。
これについて、書いていこうと思います。

それでは、概要から。

他人がみんな馬鹿に見えるのは、
自分が周囲に認められていないから。
そして、周囲の人が自身の思う役割を果たしてくれないから。
逆に言えば、自身も周囲からの役割期待を裏切っている。
だからこそ、周囲に認められず、
また自身も周囲から認められない。

馬鹿だと思うのではなく、
実は賢い人なのでは?
そう思うことで、
他者と関わる時間を、
自身にとってプラスの体験にしていこう。

1.全てを灼き尽くす光の盾

昔、誰かが言ってました。

"インターネットには馬鹿しかいない、特にツイッターには流行りにただ乗っているだけで人気取りをしているイラストレーターばっかり"

―――後の世で神絵師と呼ばれる、未だ名もなき小市民

とても攻撃的。
砂場で仲間はずれにされた子供が、
ブランコで遊んで虚勢を張っているのを思い出しました。

よくこんな感じの人、
インターネットにはたくさんいますよね。
わたしにコメントをくれる人も、
なんだかそんな人が多いです。

彼らは名誉を得ている人たちが、
彼らの基準で言うところの不名誉な行いをして、
それで不正に名誉を得ているとおもっている。

実際にそれが不名誉な事かどうか、
そんなことは人気が衰えないあたりから察せますよね。

では、何故彼らはそういった人を、
光の力で灼こうとするのでしょうか。

2.認められていないから、価値を否定する

前回ワナビーの記事を書いてちょっと学びました。

まず、彼らは所属する、
ないしは所属したいと思っている、
コミュニティから認められていない。

名誉を得ているのであれば、
名誉を維持するために他人をそういうふうに殴れない。
石を投げ返されますからね。
これは騎士の名誉。
誰かから授かった、自身にあまり結びついていない、
ただ見せかけの名誉。

その名誉は死後、だれも覚えてはいないでしょう。
ただ時間とともに古典となり、その価値は風化してしまう。

もしくは、
そもそもにおいて攻撃をする必要がない。
自身のやりたい事をして、
それでコミュニティに貢献し、名誉を得ている。
マズローでいうところの自己実現者ですね。

どちらにしても、
既にコミュニティで確立した立場を持っている人物は、
あまり他者を殴る必要はない。
認めてくれている人たちを、
わざわざ殴らないですよね。

では、認められていない人がコミュニティから認められたい時。
コミュニティへの貢献を行えば、
コミュニティに認めてもらえ、参加する事ができます。

しかし、その貢献が大変な時。
いまの自身では、それが行えない時。

こういったときにどうするのか。

こんな話があります。

むかしむかし、一匹のたびをしているきつねがおりました。
ある日、食べ物も小川もない野原の一本道をあるいていました。
「お腹がすいたな~」
きつねは、ずっと何も食べていませんでした。
すると、道の途中にブドウ畑がありました。
きつねは、おなかもすいたしのどもからからだったので、ブドウ畑を見つけ嬉しくなり、
「ブドウがあったぞ。おいしそうだな」
ところが、ぶどうは高い木の上にありました。
きつねが背伸びをしても飛び上がっても、あとすこしのところで届きません。
すっかりくたびれてしまったきつねはもう自分のしっぽさえもずっしり重たくなってしまいました。
目の前のブドウがますますほしくなりましたが、
「鳥のようにそらをとべたらなあ」
ときつねはなげきました。
おいしそうなブドウを前に出てくるつばすらありません。
するときつねは、
「どうせこんなぶどうは、すっぱくてまずいだろう。誰が食べてやるものか。」
そういってさっていきました。

https://www.douwa-douyou.jp/contents/html/douwastory/douwastory5_39.shtml

自身が得られないものは、価値が低いとしておく。
そうすれば、取れないぶどうも悔しくありません。

コミュニティから認めてもらえない人も一緒。

そのコミュニティを攻撃することで、
コミュニティは自身の価値に見合わないとしておく。
そうすれば、くだらないコミュニティだから参加してなくても大丈夫。
自分自身は保たれる訳です。

でも、
本当に彼らはぶどうを食べなくとも、
満足する事ができるのでしょうか。
きつねは恐らく寝る前にぶどうの事を思い出し、
悔しさに憤慨して死んでいるでしょう。

殴ったところで攻撃衝動が発散されるだけで、
むしろ他人に善性を求める自身の光の力。
これが楔となり、その人を縛り付け、
正しい行いができなかった時、自分までをも灼く。

結局のところ、
承認の欲求は満たせていませんからね。

そうなってしまえば、コミュニティの否定は、
ただ仮想的有能感を得るための行為。

近年指摘されている青年期の動機づけの低さやネガティ
ブな感情表出の問題の背景にあると考えられているパー
ソナリティの発達要因の1つに仮想的有能感がある.
これは,「自己の直接的にポジティブな経験に関係なく,
他者の能力を批判的に評価・軽視する傾向に付随して習
慣的に生じる有能さの感覚」
と定義されるものである

https://www.jstage.jst.go.jp/article/rika/27/2/27_147/_pdf/-char/ja

自分は馬鹿じゃねえ!
認めてくれないコミュニティが馬鹿なんだ!
といったところで、承認の欲求は満たせない。

自身の能力で出来たという経験から、
他人がこれが出来ない、
自分は出来るという有能感を得るのではなく、
ただただ周囲を馬鹿だと思っているだけ。

これが仮想的有能感。

自身の善性は、
コミュニティに対して全く貢献していません。

それでありながら、
その善性が正しいと思っている。

まさしく、仮想的

その善性は、
他人を裁き、自身をも裁く。

あまりにも、悲しい話です。
善性でありながら、
光の力でありながら。

ただのボトルネック。

吊された男

では、彼らがこの仮想的有能感ではなく、
本当に有能感を得て、
周囲を馬鹿だと思わずに、
コミュニティに認められる様になるには。

どうしたらよいのでしょうか。

3.認められるには、相手を見下さず賢い人だと思って話す

以前、さる偉人がいった言葉があります。

”相手を見下してしまうと、その相手から全くなにかを学ぶことが出来ない”

―――偉人M

仮想的有能感は、
他者を批判的に見ることから生ずる。
こいつら馬鹿なんだはwと、見下しているわけです。

しかし、
本当はとても頭が良いかもしれない。
仮に頭が悪かったとしても、
そこから何かを得られるかもしれない。

わたしは時々頂くコメント、
どうやって返すか・なんでこういった事をかくのか。
それを考えさせられるので、結構好きです。
しょうもない一文だったとしても、
伺える何かがある。

周囲を馬鹿だと思っている人。
自身はなにも得られず辛いし、
その周囲の人も辛い。

マイナスのループが生まれてしまっています。

どちらも、互いに互いの役割期待を裏切っている。

しかし、ここで相手が大変賢い人であり、
わざとそういった事をしているのであれば。

なんだか、相手の一挙一動が深く思えて来ますよね。
相手から自身がなにか学びを得られるようになる。

そして、相手も尊敬されていると思うと、気分がよくなる。

ある意味、それだけで相手やコミュニティへの貢献となるわけです。

下だと思っている相手には、
話やすいですよね。
話せば話すほど、仲良くなれる。

プラスのループが生まれますね。

わたしがよく思っているのは、
他人からは舐められているくらいがちょうどいい。
下に出ていると、相手は気分がよくなってくれます。

もちろん、コミュニティに認められる様に、
能力を上げて貢献をするのも良いですが、
まずはコミュニティ自体を好きになる。

そうすると、コミュニティへの貢献をするための研鑽。
これ自体が楽しくなってきます。

研鑽の行為も、コミュニティから評価されますからね。

長くなってきたので、
まとめましょう。

・周囲を馬鹿だと思うのは、
馬鹿だとして置くことで認められない自身を保つため

・それは仮想的有能感であり、
自身、周囲ともにマイナスのループになる

・全ての相手をリスペクトする事で、
相手に好かれて、自身も相手を好きになる。
それによって、コミュニティへの貢献の行為自体を好きになる。
これで自身の能力を上げる糧にしよう。

こんな感じで、今日は〆ます。

それではまた!