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なぜ私は私なのか

考えてみれば妙なものです。
この世界は時空間を越えて遍在する視点から全ての時空点を同時に眺めるような存在の仕方ではなく、なぜか時空間上のある一点を占める「私」という原点から眺められる、という存在の仕方をしています。

世界はこうではなく……
このようになっている

なにを当たり前のことを、と思うかも知れませんが、まさにこの奇妙な存在のあり方が表題の問いを生みだしています。

「なぜ私は私なのか」

この問いは次のように言い換えられるでしょう。

「なぜこの世界に数多に存在する意識の中で、『この私』が世界を眺める原点として選ばれたのか?」

コペルニクスの原理に従うなら、この宇宙に特別な場所などないはずです。
それにも関わらず、なぜだか「この私」という意識はこの宇宙の中で特別な地位を占めています。「この意識」だけが、なぜか特別に「選択」され、宇宙を眺める「原点」として存在しているのです。

この謎について答えるには、これまでの記事の知見のすべてをあわせる必要があります。なので、これまでの記事を振り返りながら、この記事ではこの謎について考えていきたいと思います。

「観測」と「この私」

さて、別の記事「クオリアはいかにして生じるか?」によると、意識を構成するクオリアとは量子論的な「観測」を成立させるファクターなのでした。
このアイデアに従うと、「私」という意識は重ね合わせ状態から観測によってある状態が選択されることで成立する、ということになります。
「私」の私秘性と「観測」行為の私秘性は同根だということです。

そして、この考えは「この私」という意識を「宇宙における唯一の特別なあり方」から「単に偶然によって選ばれたひとつのあり方」へと降格させることに気がつきます。
コペルニクスの原理と照らし合わせて考えると、「この私」は重ね合わせ状態がとり得る複数の状態の内のひとつに過ぎず、なんら特別ではないのです。
よって、いきなりですが表題の問いの答えはでました。

なぜ私は私なのか。その答えは、たまたまそれが観測されたからである。

では、この「重ね合わせ状態」とは、何を意味するのだったでしょうか。

自然界の基底にあるもの

別の記事「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」によると、自然界の基底には「なにも定まっていない重ね合わせ状態」があると考えられるのでした。そのようなミクロの基底状態からマクロへの像が、この世界のあらゆる存在を生みだしていると考えます。

マクロからミクロへの像

これを上記の「重ね合わせ状態」だとするなら、「この私」という意識は「あらゆる可能な意識」の中から観測によって偶然「選択」された、ということになります。
コペルニクスの原理が教えるように、やはり「この私」はなんら特別ではない、ということです。

しかし、逆に言えば、あらゆる私が「この私」であり得る、ということになります。
これは一種の輪廻転生思想を意味しているようにもみえます。しかも、「基底にある重ね合わせ」は時間や空間をもたないと考えられるため、この輪廻転生は時間空間を超越したものです。

では、死んだ後の「この私」は一体どうなるのでしょうか?

生まれる前、死んだ後

クオリアはいかにして生じるか?」によると、「私」という主観がこの世から消えされば、この世界にあるのは「なにも定まっていない重ね合わせ状態」だけとなり、あらゆる存在物は存在の根拠を失うのでした。
これはまさに「死んだ後」の状態、あるいは「生まれる前」の状態を意味すると考えられます。

生まれる前、人生、死んだ後

さて、別の記事「『死んだ後はどうなるのか』について真面目に考察してみた」によると、「私」の輪廻転生、という結論が自然な帰結として導き出されました。
しかし、そのように考えると「私」の連続性を担保するために「魂」というやっかいな概念が現れ出てくる、という問題がありました。

しかし、上記の考え、すなわち、「あらゆる可能な私」が基底状態として重なり合っており、その中から「ある私」が観測され、選択される、という描像に従うなら、最早「魂」なるものを仮定する必要もありません。あらゆる「私」は原点として重なり合っている、と考えられるのです。

ここに、ひとつの壮大な世界描像が浮かび上がります。

すべての存在は「私」であり得る

上記の考えを徹底するなら、この世界を構成するすべての存在は「この私」であり得る、という結論にたどり着きます。
なぜなら存在はその定義上、主観的観測と不可分だからです。

たとえば、素粒子のようなものも、「この私」であり得ます。「クオリアはいかにして生じるか?」にて考えたベル状態を見ればわかるように、素粒子もまた、「原始クオリア」を持ち得るからです。それは現れては消えさる一瞬の存在であると考えられるでしょう。そのような原始的なクオリアが無数に生成消滅を繰り返す世界。ここに、仏教的な刹那滅の世界観が浮かび上がります。

このような描像はまさに、究極の梵我一如思想とも言えるのではないでしょうか。
「私」という主観的原点は多元宇宙すべてを形成する一種の神のようなものなのかもしれません。

まとめ

  • この世界はなぜだかしらないけど、ある「私」が主観的原点として選択され、そこから眺められる、という形でしか存在していない。

  • 観測と意識が不可分であると考えるなら、ある「私」が選択されることは重ね合わせ状態のうちのある状態が選択されることに等しい。よって「なぜ私は私なのか」の答えは、「それは単なる偶然である」となる。

  • この重ね合わせ状態は物理世界の基底にあると考えられる「なにも定まっていない状態」に対応すると考える。

  • この「なにも定まっていない状態」は生まれる前、そして死んだ後の「無」に相当すると考えられる。よって、死んだ後は基底の重ね合わせ状態から再び何らかの「私」が選択され、世界として現れ出る、という描像が得られる。

  • 上記の考えを徹底すると、すべての多元宇宙におけるすべての存在は「この私」として選択され得ることになる。これは究極の梵我一如思想とも言えるだろう。

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