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なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?

表題の問いについてはすでに自分の中では結論がでていますし、他の記事でもまとめているのですが(さらには音楽にもしているのですが)、改めて簡潔にまとめようと思い、記事にしました。この哲学的問いについて考えて夜も眠れない経験をしたことのある人は是非読んでみていただけるとうれしいです。

「存在」とは何か?

表題の問いを考えるにあたり、最も重要なキーとなるのは、そもそもの「何かがある」とはどういうことか、すなわち、「存在」とは何か? という存在の定義の問題です。
これは哲学上重要な問題かも知れませんが、私の答えは簡潔に以下になります。

存在とは、ミクロからマクロへの像である

たとえば、「リンゴ」という存在を例にとってみましょう。
リンゴはマクロレベルではあたかも存在しているようにみえますが、ミクロレベルで眺めてみると、分子や原子、素粒子の集まりに過ぎません。ミクロレベルで見る限り、そこには「リンゴ」という存在は現れてきません。リンゴがリンゴとして存在できるのは、我々がミクロの素粒子や原子をマクロレベルに粗視化して眺めているからに他なりません。リンゴに限らず、あらゆる物質的な「存在」はみな同様であると思います。

では次に、「正義」や「愛」といった抽象概念についても考えてみましょう。これについても、正義や愛といった概念は別に天に元々あるイデアのようなものではなく、様々な現実的なひとつひとつの事柄が積み重なって、それが抽象化されて成立していると考えるならば、やはりミクロ(個別の事象)からマクロ(抽象概念)への像という考え方で理解できます。

最後に、「痛み」や「悲しみ」といった、意識体験について考えてみましょう。これについてはメカニズムはいまのところ不明ですが、脳で起こっていることを考えると、ミクロの神経細胞の数多の発火からマクロのクオリアという像への符号化のプロセスがその成立のキーになっていると考えるのは自然です。やはり、ミクロからマクロへの像、という考え方はここでも通用すると考えます。

以上、存在の定義について考えました。
そしてこの定義を採用するなら、ある疑問が生じてきます。
存在がミクロからマクロへの像であるならば、物理世界の最もミクロにある「何か」は、果たして存在しているといえるのか? という疑問です。

世界の基底にあるもの

細胞、分子、原子、核子、クォーク、……と、「存在」をどんどん掘り下げてみましょう。その基底では、おそらく「物質」も「4つの力」も「空間」も「時間」も統合されて、あらゆるものが区別なくひとつになっていると考えられます。その「何か」がいったい何なのかは分かりませんが、これまでの話から言えることがひとつあります。それは、

その「何か」自体は存在ではない

ということです。
逆に言えば、万物の根源を遡る無限後退のループは、ここで終結する、とも言えます。この「何か」自体は存在ではないため、「なぜそれが存在するのか?」という問いは最早意味をなしません。ミュンヒハウゼンのトリレンマのようなややこしい問題は、これにて回避されるわけです。

では、「存在」ではないそれは、一体どのようなものなのでしょうか?

存在と情報

ここで、存在と情報の等価性というものを仮定してみます。そうすると、存在とは何らかの情報、ということになりますが、これに従うなら、「何か」は存在ではないため、何の情報も持たない、あるいは情報というものをそもそも定義できない状態、というように考えられると思います。それはどういう状態か? すなわち、それは「なにも定まっていない状態」です。

すべてがある

さて、「何か」は「なにも定まっていない状態」であるという描像が得られました。これをイメージとしてとらえるなら、それは「有」と「無」が無限に複雑に重なり合った砂嵐ノイズのようなものだと考えられるでしょう。この砂嵐ノイズは「何も定まっていない」ため、これをマクロに粗視化することでありとあらゆる全ての存在を形成することができるはずです。
逆に言えば、「ミクロからマクロへの像」とは、「何も定まっていない状態」から「何かを定める」プロセスに他ならない、とも言えそうです。

以上から言える事は、「何か」からは「なにもない」「何かがある」「すべてがある」といったありとあらゆる存在を形成することができる、ということです。
そしてここで、表題の問いの答えが出たと考えられます。すなわち、「何もない」は、このようなありとあらゆる存在のあり方のうちの一つに過ぎない、ということです。

人間原理

では、そのような「ありとあらゆる存在のあり方」の中から、なぜわざわざ「何かがある」この世界のあり方が選択されたのでしょうか?
この答えは人間原理で説明がつきます。
人間原理によると、我々のこの宇宙が人間が存在するのに都合良くできているのは、そうでなければそれを問う人間がそもそも存在できないから、と説明しますが、この考えは暗に「これ」以外の無数の宇宙のあり方を前提としていることに気がつくと思います。
人間原理はある意味、コペルニクスの原理の裏返しバージョンとも言えると思います。コペルニクスの原理では、我々がいるこの地球は宇宙の中心ではなく、数多ある惑星のうちのひとつに過ぎないとしますが、同様に、人間原理もまた、我々のいるこの宇宙は別に唯一の存在ではなく、数多ある宇宙の内の一つに過ぎない、と説明しているのです。


以上にて、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という表題の問いは一通り解決したと考えます。

しかしやはり、「では、なぜその『何か』のような状態はあるのだろうか?」と問いたくなりますが(この問いが意味をなさないとわかりつつ)、それについてはもう「それが唯一のあり方だから」としか言えないように思います。それ以外は、あり得ないのです。
「何か」はある意味すべての存在の集まりであり、「全ての集合の集まり」が集合でないのと同様、それは存在とは別のカテゴリーの「何か」です。よってその存在根拠を問うことは意味をなさないと考えます。

まとめ

  • 「存在」を「ミクロからマクロへの像」と定義づけた

  • この定義により、ミュンヒハウゼンのトリレンマのような無限後退の問題を回避できる

  • 物理世界の基底にある「何か」は存在ではなく、「何も定まっていない状態」である。

  • 基底の「何か」からは「何もない」「何かがある」「すべてがある」等々、あらゆるマクロの像が形成可能である。

  • その中からなぜ「何かがある」が選択されたのか、という問いは、人間原理によって説明がつく。

おまけ

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