パーティーシーンにおけるジェンダーバランスについて〜なぜジェンダーポリティクスが必要なのか/WAIFUからの提案〜

先週からSNSで炎上している「Balance+」というパーティーのジェンダーバランスに関する問題について、WAIFUなりの指摘と、なるべく建設的に話を前進させるためのアイデアをここにまとめてみることにしました。

ざっくり経緯としては、本日5月20日から群馬で開催される屋外パーティー「Balance+」の出演者総勢13人の中に1人も女性アーティスト/DJがラインナップされていないことが公になり、国内外のフェミニストをはじめ、ジェンダーポリティクスの問題意識を持った人たちから批判や指摘を受けたことからはじまります。

その流れを受けて、WAIFUメンバーも各々に反応を示していましたが、改めてWAIFUとしてできることを話し合った結果、今回noteにこの記事を書くことにしました。
「Balance+」を主催するMindgamesのメンバーにもどこかで見てもらえることを期待して、ここでは、なるべく彼らに伝えることを意識して書いていこうと思っています。

しかし、本題に入る前に共有しておきたいのが、今回この件が多くの批判を集め、その批判が主催者たちの目に留まったという一連の流れを、私たちは支持しています。この件に指摘や批判をしてくれた人たちには、音楽やパーティー業界の一端を担う者として感謝したいです。
批判や怒りを肯定することについては、長くなるので、別の記事にしました。特に批判を受けたこと自体に腹が立ったり、受け入れられなかったりする人にこそ、読んでいただきたいです。

その上で、次のステップに進むためには、丁寧な対話も必要だと感じていて、今回の機会を設けました。本題に入りましょう。

芸術表現にポリティクスは必要か

このような事態になっている背景には、そもそも芸術文化において、あらゆるポリティクスが表現の質や純度の妨げになるという考え方があり、それ故に、ポリティクスの介入を拒むMindgamesの姿勢が成り立っています。
芸術文化に本気で携わった経験がある人であれば、その主張には一定の理解を示すことも可能ではあるでしょう。

言うまでもなく、いいパーティーを作ろうと思ったら出演者やパフォーマンスのクオリティのことを考えるのは当たり前で、本当は誰だって、私たちだって、余計なことを考えずクオリティのことだけ考えてパーティーを作りたいです。
本当は、目指しているゴールは同じなんです。

でもそれは、ジェンダー不平等やあらゆる差別・抑圧が限りなく少なくなった世界で初めて、正々堂々とできることでもあります。
特に、アーティストという立場ではなく、オーガナイザーという立場において、「ポリティクスに影響を受けずに、ハイクオリティな本物の表現を純粋に集める」ことは、ポリティクスが必要なくなった世界でしか、実現できません。
本当にクオリティだけで選んだら男性のみでした、という言い訳を堂々と主張するには、土壌が整ってなさすぎるのです。

この話をするとき、私は小学校の理科の実験で、何かの効果や値を測定し比較するには、それ以外の条件が全て同じでなければならない、と習ったことを思い出します。
DJの才能やパフォーマンスのクオリティを比べるには、それぞれのDJが置かれた状況に大きな差があっては、公正なジャッジができないということです。
この場合、薬品やリトマス紙ではないので、もちろん完全なるフェアな状況というのは作れませんが、既に気付いている大きな不平等に関しては、なるべく均す努力をするべきですし、それこそが、本来のクオリティを正々堂々と比較しジャッジするために必要なことだと思います。
そして、本当はジェンダーの問題だけではなく、経済格差や出産/育児などのライブイベントとの関わり方、人種、病気や生い立ちなど話もできるところから手を入れていくべきだとも思います。

ちなみに「クオリティ重視で選んだらたまたまこうなった」のは、批判する人たちは最初から分かっています。指摘されている点は、そこではないのです。
ジェンダーポリティクスとパーティーのオーガナイズは、”今はまだ”切り離して考えるべき段階ではないということに尽きます。

隣接する話として、美術業界の分かりやすい例を2つほど紹介させてください。

■史上初めて全員コレクティブ。ターナー賞が2021年のファイナリストを発表
2021年のターナー賞のファイナリストが、すべてアクティビズムをルーツに持つコレクティブだったという事例です。

■「女は才能なし」アート界の非論理性 あいちトリエンナーレを変革の一歩に
表現の不自由展などの物議も印象深い「あいちトリエンナーレ」ですが、幕を開ける前から、ジェンダーバランスに正面から向き合ったことでも話題になっていました。賛否両論ありましたが、芸術文化のジェンダー不平等に一石を投じたのは間違いありません。

誰のために、何のために、ジェンダーバランスを考えるのか

批判をしている人の中にも、この説明をしてくれている人は多数いらっしゃいますが、このことを考えるには、WAIFUなりにもいくつかの切り口があります。

①性差による機会の不平等がある現状に対して
これについてはそもそもジェンダーバランスという言葉が囁かれるようになってから、散々指摘がされてきたので、もはや説明は不要ですね。

②「女性を意図的に排除しているわけではない=ジェンダー平等の停滞に加担しているわけではない」ということにはならない
ジェンダーバランスを敢えて意識しないことや、意図的な排除をしていないということが、ジェンダー平等の停滞に加担していないことにはなりません。「イジメを見過ごすのはイジメに加担しているのと同じだ」という例えもあるように、社会的な状況を分かった上でもなお行動に移さないということは、状況の停滞に加担しているも同然と言わざるを得ません。

③ジェンダーバランスについて多かれ少なかれ”考えるのが当たり前”になった昨今、「ジェンダーバランスについて考えないこと」で守れるはずだったクオリティにも結果的に影響が出ている
本来こんな順序で考えるのはとてもイケてないのですが、今回の件だと、一部出演者の辞退などが分かりやすい例です。自信を持ってクオリティで選んだはずの出演者を結果的に失うことは「クオリティを妥協しない」というポリシーと矛盾していませんか?
また、今後オファーするDJやアーティストがジェンダーバランスやポリティクスに対するオーガナイザーの考え方を理由に出演を断る可能性や、逆に引き受けてくれる出演者が批判の対象になる可能性についても、本当にクオリティを重視するのであればこそ、向き合うべきタイミングなのではないでしょうか。

それでも譲れないなら、どうしたらいいのか

出演者のジェンダーバランスを優先することがどうしてもできないというスタンスを貫く限り今の批判は鳴り止まないと思います。それはジェンダー平等が叶うまで引き受け続けるしかありませんが、ジェンダー不平等に対して他にできることを考え、何かしらの態度を示すことはできます。

例えば、多数の海外アーティストをブッキングしていたLabyrinthのクオリティと世界観がCOVID-19の影響で保てなくなってBalanceを立ち上げた時のように、今回も別のパーティーを立ち上げるのもいいかもしれませんし、自分たちが放棄した責任を負ってくれている他のパーティーやイベントへのサポートなどをしてみるのもいいかもしれません。
今回の指摘は、あくまでもジェンダーバランスの問題に対するものですが、1000歩譲って、せめて自分たちが担わないと決めた役割を誰が担っているのかを自覚して、積極的なリスペクトをしてください。

アイデアが必要なら、批判をしてくれている人に素直に聞いてみるのも良いと思います。信頼できる女性アーティストに相談してみるのもいいですね。

対話をすること、不勉強を反省すること、勉強をすること、できることからやってみること、行動にうつせることはたくさんあります。

さいごに

これは個人的な話になりますが、WAIFUのオーガナイズメンバーの1人でもある筆者は、LabyrinthにもBalanceにも行ったことがあります。Mindgamesがクオリティの高い体験を提供していることも、実際に足を運んでくれるお客さんを大事にしたいと思っていることも知っています。

質の高い体験を作り上げることができる有能なチームだからこそ、勿体ないとも思うのです。
こんなくだらないこと(ジェンダーポリティクスなんて必要のない世の中になればいいのに、という希望を込めて敢えてくだらないと表現します)で、パーティーの評価が揺らいだり、内容に影響が出るなんて、バカバカしいと思いませんか。
だからこそ、力を合わせてさっさと限りなくフェアな世の中を実現したいのです。

芸術と社会は切り離せません。芸術と社会の両方をより高めていきたいという志に共感できる大きな意味での仲間が、1人でも増えることを切に願っています。

(テキスト:マユコ/ディスカッション意見・監修:WAIFUメンバー)


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