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フィルムカメラとメタ認知

フィルムカメラ、どんどん値段が高騰してきました。この前ヨドバシで見たら、Portraが1本5,000円ほど。どうなっとんねん。ということで、今回はフィルムで撮ることに対してどう考えるのかをメモがてら書いていきます。

自分はCanon AV-1でフィルムデビューをし、EOS 1V、contax t3と使用してきました。Portra400を愛し、現像はいつも山本写真機店にお願いしています。


(PS.来月再来月で山口県の案件がありそうだったのでぜひ直接お伺いしたかったんですが、ぽしゃってしまいました。いつかは絶対に行く。。。!)



お久しぶりのnoteです。

久しぶりにnoteを書きました。まだSNSできちんと報告していなかったんですが、今年の3月の東京の制作会社を辞めて福島に帰ってきました。元々独立前提で入った制作会社では多くのことを学びました。VGを経験してたからこそ、制作会社で感じたこと、たくさんあります。これに関してはまた追ってまとめていきたいと思います。


2年間過ごした三軒茶屋


フィルムカメラとメタ認知。

フィルムカメラを使うことによって、自分を客観的に見ることができるなあ、と今までのフィルムに対してふんわり考えていたことを言語化しました。何か行き詰まっていたりした時に、これを考えながら撮影行為を行うことで、そのモヤモヤが晴れる気がしています。今回はそのことについて書いていきたいと思います。なのでフィルム写真云々、というより、今回はフィルムカメラを使う行為に対してのメンタルヘルスみたいな謎ジャンルかもしれません。


きっかけ

前職在籍時、自分が自分でないような、そんな感覚になった時がありました。前職の仕事がTVCMのプロダクションだったということもあり、激務に激務が重なり、自分のことは完全に後回し状態。生きているんだか死んでいるんだか、自分がなんなのか分からない状態が続いていた時がありました。ゴミも出せない、洗濯物も回せない。朝の5時まで仕事をして、8時に出社するそんな日々を過ごしていました。

その時の台所。マジで心がすさんでました。笑

もう、自分がなんなのか分からない状況が続き、やる気も何も起きない。でも、何かしなきゃいけない、そう思った時、好きなフィルムカメラを持って撮影に行きました。とにかく考え込んでしまう時こそ撮影行為を行う。そうすればモヤモヤが晴れるということは、当時、言語化はできなかったけど、なんとなく分かっていたからです。激務の中で自分を見失いそうになったとき、フィルムカメラを手に取り、シャッターを切ることで心の平静を取り戻せる。そのくらいのテンションで精神的に辛い中、撮影に行きました。


※前提としてのフィルムカメラ

まず、改めてフィルムカメラにはデジタルカメラと違ってどんな特性があるのかまとめます。

①枚数制限

フィルムカメラでは、1本のフィルムで撮影できる枚数が限られています。一般的に24枚または36枚。この限られた枚数の中で最高のショットを狙うため、一枚一枚が非常に重要になってくると思います。

②撮影の大変さ

デジタルカメラと違い、フィルムカメラでは撮影後すぐに結果を確認できません。そのため、このもどかしさがフィルムに対して価値を感じる要因の1つだと思います。また、フィルムカメラの多くはマニュアルフォーカスであることも同じ項目だと思います。

③コストと時間

フィルムを購入する。現像をする。これらにはコストがかかります。また、現像やプリントのプロセスには時間がかかるため、フィルム写真は時間と労力の投資を伴います。これもまた、フィルムに対して価値を感じる要因の1つだと思います。

④感情的価値の部分

フィルム写真は、デジタル写真とは異なる感情的な価値を持つことが多いです。フィルムの特有の質感や色調が、撮影者や被写体に対して深い感情的なつながりを生み出すことがあります。この感情的な価値が、1枚のフィルム写真の重みを増す要因になると思います。


以上が主にフィルムの特徴です。

フィルムを使うことで引き起こす「メタ認知」

ということでつらつらとフィルムの特徴を書いてみました。フィルムカメラの①〜④特性を踏まえ、「思い詰めたりするくらい切羽詰まっている時に、フィルムカメラによる撮影行為をすることで、そのモヤモヤが晴れる」ことはつまり、「メタ認知によって心の機微を観察し、その針が触れる瞬間でシャッターを押している」という事実、つまり、「自分の心が動く瞬間を観察し、見逃さないということ」(=自分と向き合うこと)で、モヤモヤが解消されている気がします。頭がぐちゃぐちゃになってきたら、紙に全部書き出していくと、スッキリする、みたいな。


それが少しでも振れた瞬間にシャッターを切る、その写真が結果的にピンとが合ってなかったり、白飛びしていたりしても、いい写真になってることが多いんじゃないかと、個人的には思います。(これは行為じゃなくてアウトプットの話。)

だからこそ、改めて、フィルム写真を使用するということは、自分を無理やり客観視できる撮影行為だと思います。

先ほどまとめた①〜④を一言で言うとフィルム写真は「制限」であるとも言えます。制限があるからこそ、自分の中に今まで蓄積された価値観が、心の機微を察知し、シャッターを切る行為に至り結果的にアウトプットされる写真に感情が乗ってくるんだと思います。

フィルムカメラを通して自分を見る。

まとめると、自分は自分がなんなのか分からなくなった時、客観的、冷静になりたい時にフィルムカメラを使うことで、目の前の問題が打開できると主張したいです。また、その撮影行為を繰り替えしていくことで、より自分が分かっていくんじゃないかと思います。きっとおそらく、フィルムカメラを使う人は、それらを感覚でやっている人も多い思います。フィルム写真でいい写真を撮ろうと思えば思うほど、どのタイミングでシャッターを切ったらいいのか迷う瞬間がきます。それに加えて、枚数に対して打算的になってしまえばしまうほど、シャッターを切れなくなっていきます。また、今回は被写体や撮影した写真がどう、みたいなことは一旦考えていません、撮影行為にフォーカスを当ててみました。それはまた別で書いていきたです。

(ちなみに、心が荒んでいた時の完パケはめちゃくちゃ良い映像になりました。終わらない撮影・案件はない。始まったら終わる。制作会社の先輩たちの名言です。笑)


結局はクリエイターの抱えるストレスと、それを発散させる撮影行為とアウトプットのクオリティ、ここら辺は相関関係にありそうです。

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