一人旅を思う 小満のころ
ひとり旅の人気が高まっているという
39年間オートバイで全国をひとり旅してきた私として興味ある話である
よく読んでみると 昔の私の『ひとり旅』とはその意気込みも手段も行き着くところも違っていることに気づく
つまり 昔と今で「古い」「新しい」で比較してみる『ひとり旅』ではなく全く別物の『ひとり旅』になろうとしている
一人旅の人気が高まる理由は手に取るようにわかって、数々の旅行雑誌の記事などをみて今の世の人たちが求めているものは何かを探って行けば社会が見えてくる
その上で「一人旅とは」何か考えると、旅そのものが姿を変えてしまい 暮らしの中に求めるものに 大きな段差(変化)があることに気づく
だから 『昔の一人旅』こうだったのだ・・と、今の旅の姿自体を比較してもそれはナンセンスであり 今の旅人には関心も湧かない
『旅』というもの、そのものが 生まれ変わっているのだから
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弥次さん喜多さんの東海道の旅や松尾芭蕉が奥の細道を駆けた旅は 現代の私たちが考えるような愉しみを味わう旅ではなかった
コロンブスやマゼランの探検(それは冒険でもあった)旅が 遠い異国への好奇心に始まるとすれば 芭蕉の時代の旅も 庶民が憧れるようなものではなかったかもしれない
修行のようであり 人生の宿命でもあったのかもしれない、人生の通過儀礼であったかもしれない
それでも人は旅に出た
そこに道があるからではない
道の途中や行き着くところを知らないから 行ってみてこの目で一目見てこようというのではないか
そこにある神様にお祈りすることで願いが叶うたり疫病を退散できると信じた
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何かをして、何かを食べる
一人で気ままに行動をする
お節介を焼かれないで自分で旅の行き先を決める
疲れた心を癒す
人によっては 非日常のモノ・人と出会うことに歓びを感じる
そして 誰もいない静かな時間に味わう孤独を噛みしめる
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やはり
不便で未完成だった四十年前のひとり旅を並べて考えようとしてはいけない
カーナビ、ETC、高速道路、スマホ、ネットの天気予報、宿やスポットの検索、人との連絡
さらには、キャンプ用品、炊事道具、野外活動のグッズ、雨天対策用品、お風呂グッズに至るまで
なんでも揃うところから『一人旅』は始まる
もしも、そこにリストアップした「・・・」が無ければどうするかという心配は ありえないし 今後も起こらない
と、ここまで書き進みながら、やはり『一人旅』のことをあれこれ理屈つけるのは無意味なのだと 戒めている
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さて
そこで、昔に『旅』と読んでいた『冒険ごっこ』の話なら少しは可能だろうか
でも それも 今どき 誰も聞かない
長々と書き連ねた快適で便利なモノがない旅の醍醐味や面白さなんて 誰も理解できないし興味もわかない
そんな時代になったのだ
バイクの友だちの八嶋さんが Facebook でわたしの孫の写真を見て
「ちょうど一世代分の時間が過ぎたんですね。早いものです。 バイクに乗る機会がめっきり少なくなり、昨年バイクは 手放しました。近くのレンタルバイクで借りればいいと思いましたが、バイクに乗りたい気持ちにならず、一度も借りていません。またその気になったらヘルメットとブーツを押入から出します。」
と手紙をくれた
わたしの返事は以下だ
バイクに乗り続けることを硬い目で見つめるよりも 新しいことを次の世代に受け継ぐという観点でバイクがあった時代を伝承することは 昔バイクツーリストであった人の責務だと思います
広義に 旅がどうして私たちに必要だったのか 何かを実現するために旅という世界に足を踏み入れたその背景は何であったのか この時代の幸せ 現実 逃避 などはどんな形で若者に夢を与えていたのか そんなことを次の世代に受け継ぎたいと私は思います
バイクに乗り続けたいけど 新しく使命としたことも多くて うまく言えませんけど また機会を見てこんな話を書きたいです 酒の肴にもならんけど
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そう書きながら
バイクで行くひとり旅の時代が終わったことを悲しんだ
泣きたい気持ちだった
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今はすっかり気持ちも入れ替えて 新しい時代の『一人旅』『グランピング』などの野外遊びを愉しんでいるウチの子どもや孫たちを 私は外野から見てまったりとしている
私が当時最新で最も高額で今しかないと思って気合を入れて購入した「イワタニプリムス」のバーナーも使ってくれている
どんな気持ちで「イワタニ」を持ち歩いて そこに火があることにどれだけ感謝しながら 野営を続けて来たのかを 知ろうとすることもないだろう
キャンプ場を予約して 暖房グッズを揃えて 天気予報を確認して出かけてゆく
夜のしじまのなかで見上げる満天の星に今も昔も変わりはないだろう
けれども、何かが違うのだけど、それを説明することができないから苦心しているし、関心も持ってくれないところに寂しさがあるのだ
でも「それでいいのだ」
バカボンのパパも私の父もそう思ったことだろう