江古田 一、から 五、まで

ついでなので

を補足するために

江古田の記事リンクを貼っておく

江古田(1) 〔2004年6月中旬号〕

江古田(2) 〔2004年7月初旬号〕

江古田(3) 〔2004年7月中旬号〕

江古田(4) 〔2004年7月下旬号〕

江古田(5) 〔2004年9月初旬号〕


江古田 〔2004年6月中旬号〕

西武池袋線の江古田駅の南口を出てすぐに線路沿いを西に歩く。しばらくすると稲荷神社に突き当たって、そこを通り抜けながら南へ直角に曲がると千川通りという大通りに出る。通り沿いには武蔵大学の塀が延びている。ここをひと区画ほどさらに西にゆくと武蔵大学の正門があって道路が北に向かって延びている、私の下宿は、駅からこのように北斗七星の形のように路地を曲がってゆくとあった。

玄関には「能生館」と書かれていて、スケールは小さいが大正時代の由緒のあるような旅館のような構えだった。どうやら昭和3年に建立されて東京の空襲でも燃えなかった幸運な建築物らしい。下宿屋のおばさんがお父さんに「空襲でも残ったんですものね」と染み染みと話をなさっていたのを耳にしたことがある。

隣に「南国屋」という飯屋があって、暖簾だけがぶら下げてある。暖簾が下駄屋ならば下駄屋らしいし旅館ならそれはそれでもっともらしく見えるという風情の飯屋だった。猫が7匹ほどいて、ばあさんが「ねこちゃーん、ご飯だよ」と夕方になると呼び寄せていたものだ。「さあおいで」と優しく誘いかけていると思えば、なつかない猫たちを「お前たち、どっかに行ってしまいなさい!」と追い払っているところも何度も見た。あの猫たち、料理されはしまいかと心配したものだ。そんなこともあって、ここのばあさんの飯はさすがに食う気になれず、よその店ばかりに行っていたが、一度は食ってみても良かったかもしれない。

南国屋さんは下宿屋も兼ねていて二階に若い女の人がひとり住んでいた。その彼女の部屋が能生館の私の部屋のまん前で、窓をあけるとお互いが部屋の中まで丸見えだった。女性は下着を干すのも平気で、まだ二十歳前の男が向かいに住んでいることを知ってか知らぬのか、あらわにカラフルな洗濯物を窓の手すりの前にいつもぶら下げてた。勉強机に向かってふと窓のほうを見ると風に下着が揺れて、その向こう、つまり部屋の中で女性の姿が動いているのが見えた。しばらくすると会釈くらいは交わすようになったような記憶もあるが、残念ながらそれ以上の知り合いになれたわけではなく、悩ましい衣類や年頃の私が最も好奇心を抱いていた女性という未知なるモノの姿ばかりが瞼に残っているだけである。

下宿屋は、早稲田の学生専用だったが、例外的に一階の玄関脇の広い部屋には武蔵野音大の岡戸さんという女性が住んでいた。毎朝8時になると「あー♪あー♪あー ♪」と発声練習をした。ピアノの練習よりも歌の練習が多かったように記憶する。聞くところでは教育課程が専攻らしい。
あのころは誰もがみんなが可愛く見えたが、女性にはまったく縁がなく、私の部屋に来るのは、もっぱら隣に並ぶ部屋に住む先輩たちだった。

江古田(2)〔2004年7月初旬号〕

私がこの下宿に住みこむことになったきっかけは、文学部に進んだ島田君の紹介だった。島田君は仙台市で3年間の浪人生活を経て、4年目の浪人生活を最後と覚悟して東村山へやってきて、私と同じ寮に住むことになった。その1年間の話は長くなるのでまたの機会に譲ることにして・・・。

江古田の下宿には、島田君の仙台時代の親友であった黒金さんという、早稲田大学の商学部にかよう人がいて、島田君の紹介もあるが、私が下宿の新米として入れてもらうときには、この黒金さんの知人の紹介ならOKでしょう、ということで受け入れてもらえた。

家主さんは安藤さんといって、下宿屋の名前は「能生館」といった。おじさんが新潟の出身なんだって聞いてもその頃の私は何も考えておらず、この名前は新潟県の能生町から取ったものだと初めて気付いたのが社会人になって旅の途中に能生を通ったときだった。

安藤さんの家族は、真の親のような気持ちで面倒を見てくださっただけに、私はグウタラ下宿生だったので、おじさんやおばさんに申し訳ないかったなとしきりに反省をしたものだ。

「ねえ、お父さん、東京が焼け野原になってもこの能生館は燃えずに残ったらしいですものね。昭和3年に建ったんだからたいしたものよねぇ」と沁みじみと安藤さんのおばさんが話していたのを憶えている。おばさんは当時、40歳くらいだっただろうか。高校生の男の子と中学の女の子、そして少し歳が離れて小学生の男の子の母で、私たちの下宿人の夕飯も作ってくださる、私たちにとっても母のような人だった。

江古田(3) 〔2004年7月中旬号〕

その家族と私たち下宿人は「コ」の字型の棟に同居をしていた。家族の皆さんが2階の向こう側、私たち下宿生がこちら側。家族の部屋の1階部分が食堂と居間で、下宿人の1階は数人の人が寄って何か作業をしている会社の皆さんがいた。「コ」の字の縦の部分の1階は玄関と武蔵野音大の岡戸さんの部屋で、2階は子どもたちの部屋だった。

下宿人の2階は、道路側から辻さん、私、黒金さん、大塚さん、爪生さん、林さんの順だった。黒金さん以外は皆さんが法学部だったので、夜にあれこれと部屋に集まって駄弁るときは勉強させてもらいました。

辻さんと大塚さん、爪生さんは東大法学部を目指していたスゴイ人で、1次試験には現役、浪人、早稲田1年と3度ともパスするが、2次は厳しい壁に阻まれていたらしい。毎日、寝息の聞こえるような間合いで生活するのだから、大体どんな生活かは想像できるのだが、それほどガリガリ勉強する様子でもなく普通に机に向かったり息抜きしたりしていた。なのに1次に通るなんてやっぱしスゴイ。

広大福山高校、山口高校、韮崎高校、米沢興譲館、札幌南高校と、よくもまあこんな名門ばかりをそろえたものだ。そんな連中のなかに飛び込んできた私だが、飛び込むだけで賢くなるならいいけど、やっぱし劣等感から抜け出れない日々でもあった。


江古田(4)〔2004年7月下旬号〕

四畳半という言葉は死語かもしれない。裸電球のぶら下がった部屋だった。戸板を開けて部屋に入る。もちろん鍵などは無い。廊下沿いに窓があって、その反対側に1メートルほどの小さな窓が、道路に面してあるだけで、タダの四畳半に押入れがあるだけの部屋だった。

廊下を人が歩くとペタペタと煩い。しかしスリッパを履かないと靴下が汚れるのである。トイレや洗面所は廊下の突き当たりに1セットあり共同だ。しかし、朝や夕方に混雑した試しもないし、トイレにしても誰かの後で臭い思いをしたこともなかった。というか、そういう思いがあまりにも当たり前で苦にならなかったので記憶に無いのかもしれない。

ある日、友人が私の部屋に遊びに来た。夜遅くまで話していたので、さぞかし騒々しかったに違いないが苦情も無かった。そういう社会なのだ、この下宿は。

話が脱線したので戻します。その友人と向かい合わせで畳に胡坐をかきビールを飲んでいたのだが、その彼がふとしたことでコップを倒してしまった。そのこぼれたビールが彼のいた所から部屋を一直線に縦断して流れたことがあった。

つまり、部屋が大きく傾いているので、コップを倒すと高いところから低いところに向かってビールが一直線に流れたのであった。それほど部屋は傾いていた。

私はそんなオンボロな下宿が好きだった。


江古田(5)〔2004年9月初旬号〕


江古田駅の裏で降りて・・・いや待てよ、どっちが裏口なんだろうか。

武蔵野音大側で下りて西に歩いて踏み切りのある大通りも横切って歩いてくると「愛情ラーメン」という飯屋があった。

190円で焼き飯とラーメンが食えたので学食で食う300円ほどする定食より安上がりで重宝した。この頃、同じ駅裏にあった松屋が300円で牛丼を売り出していて、そちらも時々利用したが、値段と満腹度から愛情ラーメンは何度も利用した。

武蔵野音大や日大芸術学部や武蔵大学があったからだろう、駅前には割安感のある飯屋が多かった。天ぷらや焼き魚など、普通の定食屋では味わえないようなモノも置いている飯屋もあった。

華やかではなかったが、江古田が気に入ってゆく理由である