「儚き出会い」1992年  (小さな旅シリーズから) @2001

立命館出身の田辺くん(和歌山の子)、一生懸命探したけど 見つからなかった・・


「儚き出会い」1992年  (小さな旅シリーズから) 小さな旅


「儚き出会い」1977年

田辺君という立命館大学の学生さんに出会った.彼はバイク(バイクツーリスト)で1977(昭和52)年の夏の北海道を旅していた.当時、北海道を旅していた私は、本誌の新年からの連載に書いたように、ヒッチハイクと徒歩の旅だったので、田辺君と出会った(というか縁が出来た)瞬間は、バイクでの旅に関して冷めた感覚というか無関心に近い印象だったと思う。

雌阿寒岳(めあかんだけ、海抜1,503m)でのご来光を拝む夜間登山を終えて戻ったメンバーに野中温泉ユースホステル(以下、YHと略)のスタッフの誰かが、「ウトロYHに出立してしまった田辺君というライダーに忘れ物の免許証を届けて欲しいのだが誰かいないか?」と言って人を探していた。まさにその日に知床(ウトロ)に向かう予定だったので、気軽に「ハイ!」と私は引き受けた。

ウトロYHには明るいうちに到着した。そして、田辺君の免許証をYHの人に預けて、私は夕飯前に熟睡におちいってしまった。夜通しで歩いたせいで、とても眠かったのだろう。ミーティングの頃に一度目を醒ましたけど、夕飯を食べたかどうかさえも記憶にないほど再び眠り続けた。ただあの時、ミーティングでギターを抱いて歌っている誰かがいたのを朧気(おぼろげ)ながら覚えている。透き通った声で「今夜はキリマンジャロ、二人で飲みましょう」というフレーズが鮮明に蘇る。

結局、田辺君とは同じYHに泊まったはずだが会って話すこともなしに、次の旅先へとお互いが出発していった。しかしその後、旅から帰った田辺君から私に感謝の手紙が届き、何度か手紙のやり取りがあったのを記憶している。

私が大学を卒業して、彼の下宿のあった京都の鴨川沿いの路地裏通りを尋ね歩いたような記憶が微かにある。まさか、出会って数年後に京都に就職するなんて考えてもいなかったので、便りもやがて途絶えたままだった……。

彼もどこか遠い街に就職してしまったかもしれないなあ~と思いながら、鴨川の土手を歩きその住所を探して、暮らし始めたばかりの古都の散策をしたのだった。

今、もしかして、押入を探せば彼のあの下宿先が見つかるかも知れない。そしたら、下宿に問い合わせて実家を聞き出して、また音信が戻って、「オレも今、バイクツーリストをしてるんだよ」と言えるのかも知れない。

出会いとは儚(はかな)いものだとつくづく思う。ちょっとしたタイミングのずれで、二、三度の文通で終わることもあれば、一生の出会いにだってなる。

ウトロYHで夢と現実の狭間を流れたあのフォークソング。誰かが弾き語りで歌っていたあの「キリマンジャロ」の言葉の響きが忘れられない。だから私は、キリマンジャロが好きになった。世間ではコーヒー嫌いで通している私が、それは偽の姿で、キリマンがないと朝が始まらない。

そして、エキセントリックでドラスティックな出会いをした田辺君。あれから24年の歳月が過ぎたけど、まだライダーをしてるのだろうか。あの時、バイクに乗っていなかった私も、今はバイクの話に参加できるようになったよ。立派なツーリストになったよ。風貌も変わってしまったけど、私はまだ旅人をしています。彼にそう伝えたい。


July 4, 2001

2001年7月 4日 (水曜日) Anthology 旅の軌跡, Anthology 小さな旅 | 出典