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平戸松山窯、みかわち焼を訪ねて:WAGYUMAFIA長崎プロジェクト

長崎のプロジェクトは僕としては過去最速に進んでいて、すでにデザインが終わり施工準備に入っている。というのもスタジアムの中にあるので大元の施工工事とともにデザインを終えないといけない、そんな制約が僕の創作活動をしっかりコントロールしてくれた。そう、決して僕がえらいわけではなく締め切りがしっかりあって、かなり早い段階で動いていたからということに他ならない。開業まで一年ほど、だから器などのイメージングにも力が入る。

モチーフの一つにどうしても欲しかったのが長崎のプロダクトだ。食の探索はこれからだが、器の一部に僕はみかわち焼を選ぶことにした。スタジアムシティから90分ほど高速を走らせるとたどり着くのがこの三河内だ。波佐見、有田、そして少し北に行くと伊万里もある。言わずと知れた日本が誇る器の産地だ。みかわち焼の歴史は古く慶長3年まで遡る。16世紀末の行われた豊臣秀吉による慶長の役、そこで連れて帰ってきた陶工が平戸に開窯したことからスタートする。同じく朝鮮陶工が抱えていた唐津からの流れも加わる。平戸ではいい陶石が出土せずに、たまたま茶市が開かれていた三河内に天草からに陶石がやってきて、地元の網代陶石と調合することで世界有数の白磁が生まれ藩管理の御用窯となった。

とある場所で見つけたみかわち焼、いつもおせち話になっている器楓の島田さんに探してもらい、僕が見つけたのは平戸松山窯による絵付けだということが分かった。17代目となる中里彰志さんが伊勢丹にて展示会をされていたので、そこに駆けつけて色々とお話を聞いたのだった。420年続いている磁器の街を観にいかないと頭の中で整理が出来ないなとそう思ったのだった。

十三窯残っている窯元、独特の佇まいで残されている窯元が隣接する街だ。長男が技術を継承していく一子相伝を守っていく。「働き手は少なくないから息子の代は少し寂しくなることでしょうね」同じく絵付けを担当されている彰志さんのお母様が作業を止めてそうおっしゃる。すべてが人の手によるものだ。プリントでは繊細な線は潰れてしまう。気が遠くなるような作業をずっと続けて一つの作品が生まれるのだ。

不思議なご縁だった。聞けばジャパネットの先代のカメラ屋さんで絵柄の拡大縮小をお願いしていたという。「え?」と僕は訪ね返した。これが昭和初期の七福神の絵、これで湯呑みを作ってジャパネットで売ったこともあるんですよと笑う。元々は平戸出身の高田明前社長、ジャパネットの前身である「カメラのたかた」の支店を佐世保に出してから松山窯との交流は始まった。現社長のご子息である高田旭人さんの結婚式の引き出物でも使われたという。実は松山窯の器はこのプロジェクトが決まる一年前に巡り合って町寿司SUSHIMAFIAで使いはじめた器だ。この不思議なご縁がもしかすると長崎までの道を切り開いてくれたのかもしれないなぁっと思うと、より愛情を持って手にした器を何度も見返すのだった。

もうひとつ御用窯でしか焼くことを許されなかった唐子柄。平戸藩主が自身の使用にのみ用いる御留焼だ。献上唐子と呼ばれ、七人唐子はい藩主しか使用を許されず、五人唐子は贈答用として厳しく管理された。元々は唐の時代に幸せや繁栄を祝う吉祥文である。独特のヘアースタイルとキャッキャしている姿が僕は好きで、娘のヘアースタイルも唐子のように妻が結んでくれているからなおさら愛着が出ている。この唐子がみかわち焼の代表的なモチーフだった。

工房でずらりと並べていただいた器の中で独特の色味があるものがあった。聞けば登窯で薪で焼いたものという。そしてこれが先に記した網代陶石だった。1633年に発見され平戸焼の素地となったのこの陶石だ。ここに天然柞灰釉が加えわり、独特の質感を出していた。本来は白磁がみかわち焼のオリジナルなのだが僕はどうしてもこのオフホワイトな色味がとても印象的に残ったのだった。

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