見出し画像

シンガポールのEdwin Ngという盟友

この日曜日はEdwin Ngことエドの命日だ。一人シンガポールに乗り込んで、アジアマーケットを切り開こうと思っていたタイミング。シンガポールはまず役所から攻めると決めて、コールドコールをかけまくって日本の経産省みたいなところの、EDBという省庁の彼に出会った。その当時EDBの職員はたしか半分近いスタッフが外国人。シンガポール人のEdwin Ngは開口一番、流暢な日本語で話し始めたのだった。

何故か交渉するときは日本語で話すとトーンが弱くなるので、英語に切りかけて話をすると、色々な上役の人に繋いでもらった。そこから飲みに行くようになった、待ち合わせしたのは焼肉ジャンボ白金店のオーナーが経営する焼肉屋さんだったと記憶している。そこで僕らはどういうわけか意気投合して、何故か住居を借りる時も俺が物件を見てやるといって、仕事中にも関わらず見に来てくれた。

途中、俺は実家に住んでいるんだけど、浜田と一緒だったら楽しそうだから俺もお金を出すから少し広い家に住まないか?と提案してきた。シンガポールは国土のサイズもあり、大抵親元で暮らす人達が多い。なにも不自由していないのにも関わらず、変な提案してくる奴だなぁっと思ったものだった。日本で離婚手続き中だった僕にとっては、子供に会えずにぽっかりと空いてしまった心の隙間を、ニコニコと英語と日本語で話してくれる彼の温かい存在には救われたし、プラス政府の重要な役人でもあるということも手伝って、ルームメートになるのも悪くないと判断した。

シェントン通りのマンションを借りて、二人でシェアして毎日色々な人を呼んでパーティをした。毎晩IHの小さなキッチンで料理を作り、音楽を聞いて、酒を飲み明かした。ある日のタイミング、飲んでいた最後に重要な話をしないといけないと彼は言ってきた。時折、飲んだタイミングで伝えてくるこの重要メッセージ話は、飲んで聞くもんじゃないということで突っぱねてきた。だったらシラフの時に聞くよ!というと、翌日の夕方に話をしてくれた。

彼は末期がんだった。4年前に見つかった癌は身体至るところに転移しており、抗癌治療を受けていた。4年前に診断されたのは余命半年、そしてそこから生き延びていて、俺は元気だということを独特のクチャクチャ食べるダイニングテーブルで話してくれた。不思議とショックは受けずに「だからエドはハゲなんだな」と大笑いをしたことを覚えている。

実はこの時、彼は自分の死期を知っていたんだと思う。だからこそ最後の時間を親元を離れて自分の時間を過ごしたかったのだと思う。なぜ彼は僕を選んだかは分からないし、未だに分からない。カミングアウトをした彼は、ことあるごとに癌患者にこんなことさせやがってとジョークにして笑い飛ばしていた。そんな彼からは人生の色々な金言を教えてもらった。

「人は死が目前となると自分のためにすることなど興味が薄れて、本当に自分にとって大切な人だけになにかをしたくなるもんなんだよ。」

その年の12月、珍しくショッピングバッグをたくさん持って帰ってきたエドがいた。アディダスの靴などを大量に買い込んだのだった。よくデートをしている女性が一緒にそこにいた。あー洒落けづいてきたんだなぁっとその時は思ったが、それが彼が最後のクリスマスとなった。それももしかしたら彼は気づいていたのかもしれない。

翌年から彼の溶体は急激に悪化した。すぐさま病院にいった僕は痩せた彼と対面することになる。病院までのシンガポール訛りの運転手とのアホな会話を録画したビデオを彼にみせて、彼は苦しそうな風切音の声とともに少し笑った。それが彼との最後の会話になった。

2月28日、彼は飛び立っていった。僕にとっての初めての弔事はシンガポールの日本大使とともにした。彼が日本とシンガポールの架け橋になっていた素晴らしいエリートだということも再認識する、お葬式だった。

誰よりも早く和牛を応援してくれて、政府にかけあってもらったEdwin Ngだ。今でも僕の家には、彼の名刺、そして社員証がならんで飾られている。最後の最後まで「クチャクチャ食うなよ!」と伝えられなかったことだけが、僕が彼に注げた最大の愛情だったと今では思う。

ぜひ天国でうちの和牛をクチャクチャ食べてもらいたいと思っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?