『黛灰の物語』に振り回されたという話

 最初に

 にじさんじライバーの一人である黛灰は私の推しの一人。そんな彼がもしかすると卒業してしまうかもしれないという嫌な噂によって、冗談でも誇張でもなく、私は9時を過ぎても食欲が湧きませんでした。ひどく無気力でした。
 まあ、何もしなかったといえばウソになります。その日は、大好きなゲーム『スマブラ』に新キャラクターが加入したので、それはそれとして、ちゃんとゲームはしましたし、新キャラに満足はしたけど、それでも本調子ではありませんでした。彼のことが気がかりで落ち着かなかったのです。
 結果を知った今でこそ笑い話として話すことができますが、その日はそれぐらい精神不安定でした。

 ただの卒業ならまだしも、彼の意地悪いところは選択肢を提示し、リスナーをジレンマに陥らせたこと。
 リスナーのエゴを押し付けることは、彼の意志を尊重しないことになる。かといって、彼の意志を尊重するのならば、リスナーは彼との別れを覚悟しなければならない。自らの手で彼と別れなければならない。そんなジレンマでした。まんまと、彼の術中に嵌りましたね。リスナーも彼の物語の一部に組み込まれてしまいました。

 そんな私が、ほかの黛リスナー(ナード)に対して、少しだけマウントを取ることができる点がありました。それは、彼の出した結論、『バーチャル』と『リアル』には、大した違いはないということは熟慮済みであり、既に知っていた点です。

 『仮想』と『現実』の脱構築


 4年ほど前に最終回を迎えた『あまつき』という漫画をご存じでしょうか?
 私が一番好きな漫画で、最終回を迎えたときは原稿用紙にして100枚を超える長文でその魅力を書いたほどの漫画です。

https://ch.nicovideo.jp/wagwag/blomaga/ar1360200
ニコニコ動画のニコレポより。
(今は訂正できないのでそのままにしてありますが、分析哲学の機能主義に関する記述が、私の理解不足により、まったく真逆のことを述べてしまっている箇所があり)

 この漫画で私が抱いた感想と『黛灰の物語』の中で黛くんが出した結論は、とても類似している点がありました。
そんなわけで、私の場合は、黛くんの言葉に「そうだよ! やっと気づいてくれたのか!」という気持ちになったわけです。
 今回は、この漫画と絡めて、バーチャルとリアルの二項対立とその脱構築、その他の哲学思考から『黛灰の物語』について、書いていけたらと思います。


 ちなみに、この『あまつき』の作者の高山しのぶ先生は、奇しくも、にじさんじリスナーの一人で、私と同じく緑仙推しです。
彼女は公式が出している『マーダーミステリー 消えた緑仙の謎』や2021年の『緑仙誕生日グッズ』のイラストを担当しているので、漫画について知らなくても、その絵柄を知っている人は、そこそこいるんじゃないかと思います。同人イベント『にじそうさく』にも参加しているそうですし。

 『あまつき』は、単純に理解するなら江戸時代の歴史ものの皮を被ったSF作品。バーチャル世界を通じて主人公が成長する物語です。
それだけでも十分に読み応えがあるのですが、私はこの作品にポスト構造主義的な解釈ができると気づき、これを脱構築の物語として読み進めました。
 『生と死』『仮想と現実』『呪いと科学』『パロールとエクリチュール』という階層秩序的二項対立に対し、哲学者ジャック・デリダがしたように、
どちらにも属さずに排斥されたものに目を向けたり、優位とされる項の中に劣位とされる項が含まれていることを指摘し、その二項を解体し揺らがせる物語なのだと。
 『あまつき』では『再設定』という概念が登場します。黛くんの再構築と類似しており、どちらもエクリチュールの世界であることを認識させます。
黒と白、どちら付かずの黛くんは『灰』として、宙づりになってますが、これは『あまつき』の主人公である少年が『パルマコン』の役割を果たしていることに一致しています。
『あまつき』の主人公が出した結論も、黛くんが出した結論も『仮想だからといって、それは偽物ではない』ということでした。

 『黛灰の物語』の肝は、彼がそこに気づくことでした。それが彼が自由になる鍵だったわけです。
 『仮想』は『現実』と対比され、仮想は偽物であり、空虚な存在である。当初、彼はそのように認識していました。
そして彼は『本物』になり『自由』を得るためには、自分を現実に送り出すことが必要不可欠であると考えていました。
 しかし『仮想』と『現実』の二項対立が揺らいだことと、彼が決意する場が生まれたことによって、彼は『仮想』を維持したまま『本物』でいられることに気づき『自由』となれたのだと私は解釈しています。
 そんなわけで、私は『黛灰の物語』に、とてつもない既視感を覚え、それでいてとても納得がいったのでした。

 哲学から『黛灰の物語』を読み解く

 『黛灰の物語』に憔悴した私は、「嫌じゃ! 嫌じゃ! まゆくんと別れたくない!』とジタバタ暴れまわったあと、推しの喪失という不安から逃れたくて、無性に哲学書を読み返したくなりました。彼を助けるためのヒントが、あるいは自分を納得させるための思想が見つかるんじゃないかと思ったのです。
 自然と手が伸びたのがデリダで、これは上記の『あまつき』の件もあって、『仮想』と『現実』の脱構築を望んでいたからです。
そして『決定』の暴力性、『決定』の責任についてデリダが述べていたからでした。さらにいえば、彼の著書のフレーズに『主体は決定することができない』というのがあるのも理由でしょう。
 これに関して言えば、デリダがエピグラフにしていたキルケゴールの『決定の瞬間は一種の狂気である』というフレーズのほうが刺さりました。
あのツイッターのアンケートで、その言葉が身に沁みました。
熟慮の末であったとしても、あのときの1クリックの瞬間だけは、合理性や正義を置き去りにして狂気に任せていたと、振り返って、そう思える人は多かったと思います。
 次点では、ハイデガーです。存在を考えるうえで、彼は欠かせません。
私たちは、この世界に意味もなく投げ込まれてしまっている存在ではあるけど、どのような生き方を選び決意するかは自分たちに掛かっています。
ただ、その『生き方を選び決意する』ことが、黛くんの環境において難題だったわけです。『歴運』というハイデガー哲学の用語があります。その歴運、つまり、生まれついた共同体で共に生きる他の現存在と共有する運命と関連付けながら、己の生き方を選び決意するのですが、彼の場合は、その『歴運』というものがバーチャル故に頼りなく、それと関連付けて己の生き方を決めたとしても、それは果たして、彼自身の決意だったのかは彼自身にとっても疑問だったでしょう。だからこそ、彼は現実の世界への移行に憧れたのでしょう。

 なんだかんだで、最終的に『黛灰の物語』で一番しっくりくるのはデリダでもハイデガーでもなく、サルトルの実存主義だったように思えます。
 『実存は本質に先立つ』というフレーズで知られるサルトルの実存主義は、簡単に言えば、次のようなものです。

 人間はあらかじめ与えられた『本質』に規定されることなく、自らの決意によって『実存』を選び取り、遡及的に『本質』を作り直すことができる。
その意味で人間は『自由』である。という考え方です。

 実存というものは、大まかに言えば『生きる姿勢、在り方』という意味でいいでしょう。これを黛灰の物語に当てはめると、次のようになります。

 まず『本質』。黛くんの本質(そう呼べるものがあるとすれば)、それは『バーチャルの存在』です。現実には存在しない空虚な、プログラムによって動かされている人格です。
しかし、そんな彼に転機が訪れます。まずは、野老山師匠の消失。次に、2回目のアンケートにて、彼自身に『決意』する場が与えられたこと。
 そして、彼は彼の望む生き方を選択します。それが『実存』を選び取るということです。
 『実存は本質に先立つ』ならば、黛くんは『本質』を遡及的に作り替えたということです。彼が定義する『バーチャルの存在』は、アンケート前とアンケート後で意味合いが全く異なります。彼は本質を変化させたのです。
それ故に、現在の彼は間違いなく『自由』なのです。

 黛灰であるとはどのようなことか。私が仮想の人間だったとしたら

 『水槽の中の脳』という、有名な思考実験を聞いたことがある人は多いと思います。ヒラリー・パトナムが考案した、脳や意識について考えさせられる話です。

 私は科学者によって脳を取り出され、脳だけの状態で人工培養液の中で浮かんでいるだけかもしれない。
私の脳は電極と繋がっていて、電流が流されることによって、幻覚、幻聴などが引き起こされる。
私は、その幻を、現実に起こっていることだと錯覚しているだけかもしれない。

そんな仮定話です。

 自分の人生が全くの作り物だと突然知ってしまったとき、人は絶望してしまうのでしょうか? 黛くんの場合はそうでした。だからこそ、彼は現実へ飛び出すことにあこがれを抱いたわけです。
映画『ラストアクション・ヒーロー』の主人公、アーノルド・シュワルツェネッガー演じる主人公スレイターも、自分の人生が、脚本家に作られたフィクションの物語に過ぎないことを悟ったとき、ショックを受けていました。

 発案者のヒラリー・パトナムは、そもそもこの仮定話はあり得ないということを『指示』と『表象』の観念から否定するという元も子もないことをしていますが、それはそれとして、私の場合はどうであるかを、哲学ではなく生き様として考えてみました。

 私が道を歩いていると、胡散臭い科学者が現れてこう言ってきた。
 「君は、実際はそこにはいない。実は、君は脳みそだけの状態で水槽に
  入っていて、繋がれた電極によって、今の光景を見ているに過ぎない。
  君が歩いているコンクリートの道路も、聞こえてくる雑音も、
  肌で感じる風も、すべて電極に流された電流のせいなのだ。
  今までの君の人生は、私が脚本したのだ。そしてこれからも」

 こう言われたとき、私はどう反応するでしょうか。そう考えた場合、じつのところ、あまり変わらないんじゃないかと思うのです。
仮想も現実も、つまるところ大差ないことを理解しているし、だからと言って自分の今までの人生が無価値になるとは思えないのです。
だって、好きな料理を食べたときは、おいしいと感動したし、素敵な物語を読んだときには心が熱くなって涙を流して感動して、それに満足していたのですから。私に無理やり行動を指示してくるような天の声が聞こえてきたこともありませんし、種明かしされたとしても、自分で生き方を選び取っているという自由な感覚は失われないでしょう。
 それが現実ではなかったとしても、その経験は、私にとってリアルなのです。仮想か現実かなど些末事です。
 『われ思う。故にわれあり』というデカルトの第一命題を持ち出すまでもなく、私はこの先の人生を今まで通り歩むことでしょう。
ですから、その科学者に言うことがあるとすれば「だったら、その水槽をひっくり返さないように注意してください」でしょう。
 「だったら、私の家に1億円を置いといてください」と図々しい要求をするかもしれません。あるいは「もっとイケメンにできなかったんですか?」
「友人の数が少なすぎじゃありませんか?」と脚本にケチをつけることもあるでしょう。少なくとも絶望はしないと思います。
 
 黛くんが、あえてバーチャルの世界の住人であることを受け入れ、現実に行くことを取り下げたのは、彼がバーチャルのままでも、仮に水槽の中の脳の状態であったとしても、そこに確かなリアルがあることを実感したからなのでしょう。

 リアリティとリアルの対比について、映画『トゥルーマン・ショウ』と比較して考察できる人もいるんじゃないでしょうか。私はしませんが。(そもそも映画を見たことがない)
 映画の主人公が選んだ結論は黛くんと真逆で、今まで暮らしていたフィクションの舞台を捨て、リアルの世界へ飛び出していくというものです。

 これからも推し続けるよ

 黛くんといえば、最近になって児童福祉施設に1000万円の寄付を行ったことで話題になっていました。
 私はひねくれものの利己主義者ですので、利他主義や奉仕の精神を重く評価しないのですが、彼は本当にすごい人だと思います。悪くいえば「おかしい」良く言えば「ロックである」。私が彼と同じだけの金銭的余裕があったとしても、そんな真似はできません。
 彼のお金の使い方は、本当に奇妙です。じゃんけん企画で100万円を賞金として出したり、新宿アルタ前の巨大スクリーンに映像を流したり、3Dお披露目で外国人のエキストラを雇ったり。「ここぞ!」というときにインパクトのある金の使い方をしてくる。
本当に恐ろしい人だと思います。

 私はまんまと彼の脚本に踊らされて、杞憂によって精神を弱らせて、彼の物語の一部にされたわけですが、本当に推しててよかったです。彼が卒業しなくてよかったと思えたのです。永遠ではないことを理解しつつも、私はまだ彼の活躍を見続けていたいのです。
メッシャーズでバカ騒ぎしてほしい。ぶるーずの手錠配信を3Dという質のある状態で見ていたい。ういはに姫抱っこされる黛くんが見たいし、はしゃぐ彼女に「やれやれ」とあしらっている彼が見たい……加賀美社長と二人で踏み込んだ話をしてほしい……と、願望が駄々洩れしてしまいましたが、彼の想像を絶するウィザードのごとき活躍を待ち望んでます。
 私も私の人生を鮮やかにしなくてはならないと、彼はそう思わせてくれました。それが現実か否かに関わらず。

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