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紐解く高級砂糖「和三盆糖」の歴史‼️

四国で生産される「和三盆糖」
その歴史を紐解くと色々と知られざる事が。
最後までお読みになると、お干菓子を食べるときに一味違う味わい深さを感じられると思います。

起源


阿讃山脈(讃岐山脈)は香川県の讃岐と徳島県の阿波を隔てており、扇状地形(川が山地から平地に流れ出た所に土砂を堆積(たいせき)して作った扇形の沖積地)で礫質土壌で不毛地帯でした。

この地域では甘薯や粟、大豆以外の適作物はなく、地域の人たちは零細農で生活は困窮していました。

ところが砂糖の原料である良質のサトウキビには最も好適な地であることが証明されて、絶好の産業として瞬く間に広がります。

和三盆糖に使われるサトウキビは「竹糖」と言われる在来品種で他より背は低いうえ、細く生産効率は悪いのですが、和三盆の特徴の風味や柔らかな甘味は竹糖ではならなかったのです。

こうして、山を隔てた「讃岐和三盆糖」、「阿波和三盆糖」2地域で作られるようになりました。

讃岐和三盆糖(さぬき)

 阿波より2〜3年早く作られたようです。
既に薩摩藩では、黒糖の生産はされて藩の大きな財源の1つでした。栽培方法や砂糖の製造方法を藩外に出すのは国禁とされ見つかれば死罪になる罪でした。

讃岐の藩主の命により、サトウキビの栽培、製糖技術の研究をしていた向山周慶(さきやましゅうけい)は、関良助が密かに薩摩より持ち出したキビの苗を使い、栽培、製糖を発展させました。
関良助は周慶に何らかの恩があり、それに報いるため持ち出したとされています。
周慶が亡くなると後を追うように良助も亡くなりますが、薩摩藩の刺客に殺されたという説もあるようです。

阿波和三盆糖(あわ)

 阿波藩では板野郡松島村の丸山徳弥により糖業が開始されます。
徳弥は日向(宮崎)に渡り、食用にすると言い苗を入手、栽培を始めます。再度日向延岡藩へ行き、永住すると偽り製糖技術を熟知して帰国し、阿波藩で製糖を開始します。

このようにしてほぼ同時期に「和三盆糖」は製造されました。

白下糖(和三盆糖になる前の砂糖)

発展

当時国内産の砂糖は「黒糖」でした。
白砂糖は殆どが中国、オランダとの長崎貿易によって輸入されていました。
なんといっても和三盆糖の特徴はその白さでした。「雪白の如く、舶来にいささかもおとらず」と言われた程です。
これが商品流通の中心地であった大阪に運ばれて
そのうち約54%が讃岐からといわれ、一大生産地となりました。阿波和三盆糖も讃岐に次ぐ生産地として発展します。

衰退

江戸時代が終わり、明治時代に入り20年ごろまでは砂糖製造による収益は最盛期よりやや下回る程度でした。しかし砂糖輸入の増大の中で急激に衰退をしていきました。
産業革命を経た欧米資本主義列強の大量で良質安価の機械式製糖には太刀打ち出来なかったという事です。

干菓子(dejisyaさんより)

生き残り

輸入糖の最高級をもってしても
和三盆の風味、まろやかな甘味は代用出来ず
その価値が見出されます。

生産者の絶え間ない探究と販路開拓の必死の努力、そして和三盆の特徴を最大限引き出し芸術的な和菓子を開発した和菓子職人たちのおかげとも言えます。

夏の干菓子(チョコラテさんより)

現在

 現在では「讃岐和三盆糖」「阿波和三盆糖」ともに貴重な高級砂糖として地位を確立しています。
和菓子はもちろん、洋菓子、料理などにも使われ
ています。


最後までお読み頂きありがとうございます

リンクを貼っておきますのでご興味のある方は覗いてみてください。


引用文献
「四国の和三盆糖」
田中啓 (香川大学農学部教授)
「阿波和三盆糖の歴史的研究」
立石恵嗣、小笹泰史、佐藤正志
「讃岐砂糖起源沿革盛衰記」
木原溥幸

讃岐和三盆

三谷製糖
https://wasanbon.com/
ばいこう堂
http://www.baikodo.com/

阿波和三盆

岡田製糖所
http://www.wasanbon.co.jp/
服部製糖所
https://www.awawasanbon.com/

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