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デヴィッド・リンチの短編まとめて見てみた1

デヴィッド・リンチの短編まとめて見てる。
最高!
おもしろ!
かっけー!
あほみたい!
こんなにいいとはな〜。
ちゃんと全作あほみたいなのは素晴らしいことだ。
見直したぜデヴィッド!😆👍💕
というわけで、特に気になった作品について感想をば。

『アルファベット』

·····大学時代に彼女を妊娠させてしまったリンチの妊娠=女性の肉体が変態transformしていくことに対する被害妄想的恐怖がフランシス・ベーコン風の画面に瞬く。同テーマで一度見たら脳内に焼きつくきっしょい胎児が登場する『イレイザーヘッド』の原型か。むちゃくちゃかっこいい。

・『16mm』

·····『アルファベット』の映像素材をリサイクルして男性権力の手に負えない自由な主体へと変態transformしていく女性性の再抑圧・迫害というテーマをヨーロッパ中世の魔女狩りにまで敷衍拡大しロールシャッハテスト風の対称性(カント)図像の幾何学的奇妙さを活用しつつ発展的に展開。大傑作!

・『カウボーイとフランス人』

·····タイトルまんま、これがほんとの『パリ、テキサス』(笑)ちなみに同作の脚本を手掛けたサム・シェパードは現役で活動する本物のカウボーイだったという。
あたかもシュルレアリスト・ダリに取り憑いたフェルメールトラウマのごとくリンチのアメリカンGood 50'sトラウマが炸裂。カウボーイ、ミュージカル、ブロンド。黒人不在の夢。
気になるのは、明らかに天使的で無垢な存在として表象されているブロンド女性三人が、あれはゴスペルと呼んでいいのかとにかく聖歌らしい歌を一糸乱れぬハーモニーで歌い上げる姿を荒野の宙空に幻覚的なヴィジョンとして目撃するカウボーイ像。
同様のモチーフ(キリスト教系の更生施設の畑でマリア様を幻視する悪ガキ=ニール・ジョーダン監督『ブッチャーボーイ』など)を映画の中でよく目にすることがあるのだが、あれはキリスト教的な幻視(隣人愛と収穫の知恵を説くイエスの思想に共鳴していたイケメン赤毛のステファノを石で打ち殺したorリンチの様子を傍観していたユダヤ教保守のサドカイ派信者パウロがある日宙空にイエスの幻影を見て落馬&目から鱗が落ち改心したような、あるいは聖ヒルデガルドら女性の聖者が偉大なるイエス様とえっちなあれこれをしちゃういけないビジョンを幻視したような)のピューリタン的抑圧&ブロンド幻想(映画に登場する“天使的で無垢な”、つまり聖マリアとして表象されている女性はだいたいブロンド)バージョンというだけではなく、なにか具体的な共通の元ネタがあるのだろうか?
気になる木。


・『ブルー・シャンハイ』

·····2010年のディオールの新作バッグのコマーシャルフィルムとして制作されたらしき作品。
お目目パッチリどんぐり眼のブロンド美人がシャンハイのホテルの部屋に入室したところ突如として閃光が炸裂し靄の中からディオールのバッグが爆誕!驚き戸惑う女性はフロントに連絡し「部屋の中にだれか、なにかがいるの!そのなにかがあのバッグを置いていったのよ!」と必死に訴えるも、無表情で威圧的な長身男性二人が室内を検めたところ異常なし。逆にベッドに腰かけた女性が仁王立ちの二人組に両サイドから質問攻めに合う展開に。当初こそ「わたしはなにも知らないわ、上海には初めて来たの。昨日着いたばかりなのよ」と戸惑いつつ弁解していた女性だったが、次第に失われた恋人の記憶を蘇らせはじめ···というお話。
劇中に印象的に登場する青い薔薇(Blue Rose)は、その昔青い薔薇が品種改良によっては作り出せなかったことから(現在ではバイオテクノロジーによって錬成可能)、不可能なものへの憧れの象徴であり、タイトルの「ブルー」に対応している。
また、同じく「ブルー」をタイトルに含み持つリンチの名を一躍世に知らしめた名作『ブルーベルベット』では、不可能なもの(恋)への憧れ、妊娠恐怖と裏表の関係にある間男恐怖(恋した相手はヤクザの彼女パターン。『ツイン・ピークス』にも登場)から派生する強迫神経症的な“逃亡”という主題など、「ブルー」繋がりで共通するテーマを読み取ることもできる。
上海が舞台、蓄音機から流れるオールドミュージック、そしてなんといっても道ならぬ恋と逃亡劇という見かけ上の類似から否応なくウォン・カーウァイを想起するが、してみるに、僕にとってはまるで退屈でせいぜいのところがヌーヴェルヴァーグのよくできたイミテーション(まがいもん)に過ぎないウォン・カーウァイの諸作は、ヌーヴェルヴァーグ的というよりむしろリンチ的で、炭酸が抜け切った人工甘味料過多な『ブルーベルベット』という塩梅なのかもしれない。
すると逆に『ブルー・シャンハイ』は、たっぷりの毒気を注入したウォン・カーウァイということか(笑)
それって最高じゃん!
結局僕がウォンの映画に感じる物足りなさは、リンチ的な狂気・本気っぷり・妄想的な思い込みの強度の不足のゆえのだろう。狂気とかなんとか、ださいからあんま言いたないけど(笑)
かつてリンチは『インランド・エンパイア』公開時のインタビューで同作のテーマを“woman in trouble ”と表現していたものだが、翻って考えてみるに彼の映画は基本全部これのヴァリエーションなのであって、さらに言えば“in trouble”(恋人がヤクザ、も、妊娠も、リンチ≒シスヘテロ男性にとっては等しくトラブルなのだ!)な女性に不可能な恋心を抱いてしまった男性が今度は自分もその“trouble”に感染していってしまう脅迫的な被害妄想のドラマだと言うことができるだろう。
それにしてもこの作家、人物の(特に、女性の)不安な顔を撮るのがまー上手い。
ノッポ男性二人に尋問される女性の不安な(同時に、見る者を不安に陥れる)顔の衝迫力は、個人的に最も好きな作品でもある『ロスト・ハイウェイ』に登場する老婆や小人の老人と同様、どんぐり眼のパッチリお目目を不気味さ・不安定さの表象として活用することで生み出されている面も大きいようだ。
表象=見かけの印象≒ルッキズムについて厳密な意識を持たない視覚芸術(この場合映画)の作家は、当然のこと、現実において別種の生を営んでいる人間であるところの役者の顔を素材として利用し、自らの虚構の生産物(映画)のイメージ形成に役立てることについて、反省・葛藤の意識もまた持たぬに違いない。
僕がウォン・カーウァイの映画に感じる憤り、その美的表象の裏に看取するなにかしら搾取的なものの気配、現実を素材として活用することによって初めて虚構の生産物として成立する実写映画というメディアに予め内在している欺瞞性に対してまるで無自覚なように思えるルッキズム表象についての憤り、現実を加工してre-present(表象)する際の作法、そしてその背後に透けて見える作家としての精神的態度に対する“極めて倫理的な”懐疑なのだろう(これは、単に「ウォンは絵に描いたような美男美女しかメインキャストに使わない」という表層的な問題に留まるものではないが、もちろんその問題も含み持つ)。
ということを、リンチの短編、とりわけ狂気のコマーシャルムービーにして“ちゃんとしたウォン・カーウァイ”『ブルー・シャンハイ』は教えてくれたのだった(笑)
ありがとうリンチ!
最高!大好き!おもしろかった!🐻🌹💕

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