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自分のキャパシティは自分で決めない。




箕輪厚介/死ぬこと以外かすり傷は未読了ではあるが、
ズキンと心に響いたことをアウトプットしてみようと思う。

まずは、結論と自分が心がけていきたいこと。
キャパは自分では決められない。量をこなせば、その量なりのキャパになっていくのだ。

今日はある本の感想を共有しようと思ったが、
何せ忘れやすい性分なので、オモシレーと思っていたことが記憶がコンコンと消えていくのだ。

まあ、だから、ツイッターの固定ツイートにもあげているが、
これから変化したい方向性と、やっていきたい領域について明確に示していこうと思う。


看護師として3年ぐらい病院で働いてきた。


その3年で得た個人的見解は、病院は自分のやりたくないことであふれていたのだ。
多重課題で埋め尽くされ、
嫌なほど固定概念に晒されていて、
人の生と死に触れ、
パターナリズムに溢れている看護師の縦社会とコメディカルの社会。

こんなやりたくもない、いたいとも思わない仕事に、場所にいても、自分は成長できないだろうと思った。

しかも、どれかのnoteにも少し書いたが、
ひどい言い方かもしれんが、
病院は
社会にいる人間が
身体的とか
精神的とかに苦しみ、苦しんだ先の人間が行き着く先なのだ。


そんな受動的な受け手の場所にいて、能動的もクソもない。

医療に健康に興味がない人が入院したところで、
入院後もその性格は変わらない。

入院を経緯に性格が変わる人間なんているんだろうか。
いや、3年間見てきたが、そんな患者はいなかった。

大体、「なるようにしかならないのよね、、」的な言葉しか聞いたことがない。

それどころか、医療者に逆上してくる患者だっている。

無限に生きられる人間なんていないのに。
新型コロナで如実に感じた人はたくさんいるだろう。

そんな疲弊的で閉鎖空間にいる自分が嫌になった。

だから、自分が輝きたい。

輝いている人のパフォーマンスが、人生が昂ぶるような、支援をしたいと思った。

だから、予防医療を学びたいと思ったのだ。

と同時に。


自分の悪いところなのだが、
死に向かうことを受け入れられていない人を放っておけないとも思った。


死に向かう事実は変わらない、、。それなのに。受け入れられない人は多い。


なんでだろう。

親族の死は誰しも見ているはずなのに。

自分事にできないのはなぜだろう。


自分が目の前で死に向かう人間に対して、心臓マッサージをする

という予防の「よ」の文字もない矛盾した死の瞬間に触れたからか。

いろいろ理由はあるが、
能動的な世界で生きていたいから、
能動的な人間の周りで生きていたい。
と同時に、能動的な人、能動的に生きようとしている人の
生と死をフォローしていきたい。

そう思ったのだ。


想像レベルではあるが、

『生』については、
予防医学を。

『死』については、
ACPを。

より、それぞれの人が注目しやすい、形で。

死を受け入れられやすくて。
自分が死にそうなときに、
死を望んでいる人が、
家族やそれに値するひとの考えで無駄な生の時間を生かされることがないように。

ACPとデザインを掛け合わせていきたい。

よりみんなが可視化できる形で。


予防医療なんていくらでもあるし、
人の心に寄り添う形で届けるなんて、、。

自分には無理なんじゃないかな。

日本には予防医療なんて広まらないのでは?

安楽死が受け入れられない日本では
理想的な死など、叶えられないのでは?

と思っていたけど、少しだけ光が見えてきた。


それを少しずつ実現していく。

明日から1日ずつ、少しずつ前進していきます。

だから、明日は箕輪厚介/死ぬこと以外かすり傷のアウトプットしよ。
アウトプットなんで、自分のために過ぎません。笑

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