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手段と目的

こんにちは。八百屋を営む私にとって、春は桜の季節とともに筍の季節でもあります。私が仕入れさせてもらってる筍は土質もあってもともとアクがすくないのです。ただ、生産者さんももう80歳。なかなか急斜面の作業は大変で今年はもう山に行かないとのことで、私自ら掘りに行くことになりました。毎年いくらかは手伝っていたものの、今年は1ヶ月間毎日掘りに行きました。でも私が掘りに行くと80歳の農家のお父さんも一緒に山に上がってくれました。
酷使した体は満身創痍ですが、やりきれた思いで心は少しホッとしている鹿庭が今週のnoteを担当いたします。

先日、20代の男の子と話をしていました。その子は
「自分がやりたいことを探している」と。私は「それは仕事?」と訊ねました。彼は「はい、自分が何の仕事がしたいのか探してます」と答えました。
そして私はさらに「仕事をする目的は?」と訊ねました。すると彼は思い込むように止まっていました。なるほど、彼は仕事に就くことが目的だった様子でした。もちろんそれは普通のことであると思います。仕事をしていてお金を稼いで家族を養って、税金を納めるという一般的なことです。

人は「何か」をしています。勉強であったり仕事であったり子育てであったり。さらには旅行や地域活動、趣味、恋愛、結婚、食事、睡眠、掃除などなどさまざまなことを人はしています。ふと、それは「目的」なのか「手段」なのか、そんな哲学のようなことが思考の中に浮かんでくることがあります。

アスパラの収穫   薫る農園

例えば「花を育てよう」と思った時は「花を育てること」が目的です。その目的の先に、庭が華やかになり幸せな気持ちになるかもしれません。
ということは、「庭を華やかにして心を和ませよう」という目的を先に考えると「花を育てる」ことは「手段」になります。

料理もカメラも車も裁縫も、最初はそれ自体を所有したり行うことが「目的」だったことが、さらにその先に目的ができることによって「手段」に変わってきます。

何が言いたいのかと言いますと、全ての事象は「目的」と「手段」の両方になりうるということです。
ものすごく当たり前のことなのかもしれませんが、僕が強く言いたいのは、全てのことが「手段」になるなら、今私たちが生きているこの自分の人生も「目的」ではなく「手段」となるのではないでしょうか。

「生まれてきて幸せに生きること」が「目的」ではなく「手段」だとすれば、この人生は何のための「手段」であって、何を「目的」としているのでしょうか。

桜を撮るご婦人

先の例で、もし花の種類はなんでもよく育てることが「目的」で種を選んだら、もしかしたら自分の庭の雰囲気には合わないかもしれません。最初から庭をどうしたいか考えて花の種類や色を選べば、自分が心地よく思える庭になっていきます。

私は趣味で写真を撮るのでレンズ交換式の一眼レフカメラを持っているのですが、最初はレンズを買うことが「目的」でした。しかしいざ自分がどんな写真を撮りたいかわかってきたときには、自分が持っているレンズでは十分に撮れないということが最初の頃はよくありました。今は何をどんなふうに撮りたいかということを考えてレンズを選ぶようになりました。

3月 蝋梅

人生ではどうでしょうか。仕事をする、結婚をする、お金持ちになる、それらが「目的」であったならば、その結果、自分の人生が良くなるか悪くなるかはわかりません。同じように、「生きること」が「目的」であったならば、人生の最後に幸せだったかと思えるかはわかりません。

人の幸せは一つのモノサシでは測れないので、人によって価値観は様々ではありますが、私はこの世の中がより良く、本質的に大切なことに価値観が向けられたらいいなと思います。
大きな流れに身を任せ無難に生きるよりは、なにかに抗ってでもこれから先にも大切なものを残せたり、人が幸せを感じられることを少しでも増やしていけたら、世の中はもっと良くなると信じています。
自分の人生を「手段」とできるなら、普段から選ぶものや言葉、価値観、思想、行動も変わっていき、世の中が良くなり人をより幸せにできるという「目的」の先に本質的な幸せがあるのではないかと思っています。

93歳で現役でバイクにのる農家のおばあちゃん

最後に、「人や社会の役に立ち、自分が本質的に幸せに生きれた」ということも「手段」にできたなら、それはどのような「目的」のためなのだろうか…   ということを自分自身に問いかけてみようと思います。

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