見出し画像

ニコチンの幻。④おとな。

このあいだ、懐かしいものを発見したんです。

画像1

 小学校4年生の時、学校で「二分の一成人式」というイベントがありました。その時に「大人になる」という題でひとりひとり書いたものだと記憶しています。10歳のわたしが思いをはせた大人の姿です。


 それから11年が経ちました。21歳を迎えて1か月半です。あの時は、時間が流れ年齢を重ねるだけで自然とそういう人になれると思っていたような気がします。きっと年齢を重ねることがこんなにもあっけないものだとは思っていませんでした。目の前のことに全力になっていたら気づけば成人していたような気がします。


 上の文章を読むに、あの時の私は「おとな」の持つ要素のうち、「責任」と「余裕」という側面に重きを置いていたようです。いまでもその2つの要素はとても大事に思っていますが。


 11年経って、「おとな」に近づけたでのしょうか。


 最近「子どもみたい。」といわれることもあれば、「若いね。」といわれることもありますが、「おとなだね。」といわれることもあります。


 もちろんそれらは全部、同じくらいうれしいです。できれば年は取りたくないし、いつまでもすべり台とプリンアラモードにはこころを躍らせたい。でも、「おとな」として扱ってもらいたくて、じたばたしていた中高生の頃のわたしはとても愛おしい。そしてやっぱり、どうせとるしかないのならちゃんとできるだけのことを経験して吸収して相応に年齢を重ねたい。そういうふうには思っているので。


 ただ、10歳のわたしに向き合うために、とりあえず、「おとなだね。」と言ってもらえる時とは、どんなときなのかとかいうことについては、なんとなくじゃなくて、ちゃんと考えたいなと思ったんです。


 まだまだ「おとなだね」とってもらえることは多くはないけれど、数少ないその機会は、きっと「想像力」とそれをはたらかせる「余裕」を意識できていた時だったように思います。


 子どものようにその瞬間瞬間に必死になりつつも、それ以外の選択肢、選ばなかった選択肢、他人が選んだ選択肢に思いをやり、それぞれの立場を想像する力。そんなものを意識できる余裕を持つことができたら、「おとな」に近づけるんじゃないかと思いました。


 もっとゆっくりずっと考えたい議題ですねこれは。考え続けます。

ただとりあえず、目安の1000字に近づいてきてしまったので今日は終えます。つたない文章に最後まで付き合っていただきありがとうございます。

読みやすい文章、頑張って研究していくので、どうぞお付き合いください。

それではまた。

wafu。


2020年8月23日 21:57 ほどよい夜の常温の室内より。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?