ことだまって、やっぱりあるみたいで。
大学時代、人文社会科学部というところにいた。
その学部にいる、よく「宇宙人と交信してる」と言われる教授は、たしかにちょっと変わっていて、でも彼の講義は聞いていておもしろかったことを覚えている。
白髪で、いつもどこか挙動不審。飴はバリボリ噛んで食べ、いつもコーラやペプシみたいな炭酸ドリンクを飲んでいた。
そして講義には必ず遅れてくる、という。
東大を出ていると噂で聞いたけど、なんかいろいろと飛び抜けている先生だった。
理解なんてできない、でも、おもしろい。
私は彼の講義を取り、休むことなく受け、出席カードを毎回欠かさず紙がいっぱいになるまで感想を書いた。そして、最後のテストは受けなかった。
先生もさすがに心配したらしく、「あとからでもいいからテスト受ける?」と気を遣って聞いてくれたが、断った。
単純に、話が聞きたかっただけだった。
ほかでしっかり単位を取っていたことも大きいだろう。
なんにせよ、必要以上はいらない。
これが純粋な興味、好奇心だったのかもしれない。
・・・
その先生の別の講義で、映画『おくりびと』を鑑賞・考察する機会があった。
どういう流れでそうなったのか、記憶はあいまいだけれど、家族で石を交換して気持ちを伝える石文(いしぶみ)の話から宮沢賢治の話になり、言霊(ことだま)の話になった。
言葉がまだなかった頃、石で自分の気持ちを伝えていた…?
かくいう私も、石集めをする子ども時代だったので、あらためてこういう本があるとは知らなかった。
(今度読んでみよう)
スピリチュアルな話をするわけでないけれど、たしか、石に気持ち、魂を込めて渡すというのが、言葉に変わった。
そのとたん、言葉は便利すぎて、次から次へと生まれては消えていく。
でもそこには、石文のときと変わらない、気持ちが宿ってたはずなんだよね。
なぜ今こんなことを書いたかというと、最近ツイッターをようやく楽しめるようになったことがきっかけだ。
どうして楽しくなったんだろう…と考えてみると、「嫌だな」と思うことをつぶやかなくなったことが大きいと思う。
それがすべてではない。
「嫌」と言ってもこれもまた表現が難しくって、ちょっとした愚痴、どこにも行き場のない想いとか、なんというか。
そのときの衝動だったり、怒りだったり。
簡単に言葉を使えてしまうからこそ、大切に使いたいなと、至極当たり前のことを思った。
そう考えていたら、つぶやきの下書きが100件近くなってしまったこともある。
ネガティブなことを言うのが悪じゃない。それは自分の気持ちだから。
数年前から、“言葉にする”大切さは身にしみていて、言うことでそれが仕事につながったり、人のわが広がったりと、それはそれは、ほんと、身をもって体験してきた。
それでも、やっぱり大切にしたい。
発言にしても、つぶやきにしても、記事のテキストにしても。
単純に、楽しくいきたい!
楽しかったこと、クスッと笑ったこと、そういう気持ちを言葉にしていけたらいいな。
もちろん、隠しておきたい気持ちもあるんだろうし(笑)。秘めておくというのは、それもそれでドキドキする。
当たり前のことが、やっぱり難しいと気づかされる日々です。
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