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綺麗事を並べても

ある朝、法事のために、電車で大阪へ行くのに、最寄駅まで車を走らせていた。

電車ギリギリ間に合うか!?って時間帯。

車の前を、小さな鳥が横切り、ウチの車にぶつかった。


電車は一時間に一本。
もう電車まで時間がないし、後ろから車も来ていたし
止まれなかった。。。

いや。。


止まらなかった。


鳥をひき殺しながら、数年前に亡くなった人の法要に向かう自分が
滑稽に思えてきて笑った。


時間という概念で動く人間には
小鳥の命くらいでは、その時間から外れるわけにはいかないんだ。。。


そんな私のカバンには生命について書かれた本が入っていた。

「生命の星-人間と森羅万象について考える」

だってさ。

それが自分の滑稽さをますます増長させてて、また笑った。


何を言われても、結局綺麗ごとにしか思えなさそうで
その本は結局開けなかった。


そもそも法事の後にも、人間て肉を食べたりすんだよね。
生きてる=誰かの命の犠牲の上だという
生き物のその残忍さは隠しきれない。

今まで、どれほど鶏肉を食べてきたことか。
ひき殺した小鳥の命を悲しむなんて、そもそも都合が良すぎないか?

あの小鳥が人間だったら、法事に行ってる場合じゃなくなるだろう。
あれが、犬だったら??
事実が大きすぎて止まっていたかもしれない。。
命には大きさがあるのか??

いや、あれが小鳥は小鳥でも、
友達がものすごくかわいがっていた小鳥だったら?
ん。。。さすがに止まっていたかもしれない。。

命には、どうやら大事なものとそうでないものに
ボーダーラインがあるみたいだ。


犬や猫は、全く気にせず、目の前の獲物をいただく。

今日もむぎ(猫)は、朝からねずみがいる場所から離れない。
出てきたら遊びながら殺して食べるんだ。
ねずみと遊ぶときは、必ず私がいるとこまで持ってきて
くわえて高くほり投げて、ジャンプしてキャッチしたり、
回転レシーブしたり、かつてのジャイアンツの長嶋さん並みに派手に遊んでから食べる。
それも、ものすごく得意気に。
むぎが生きるのに、ごくごく当たり前の事。

動物なのに、脳が大きくなりすぎた人間ならではの苦悩なんだろうなぁ

(これから書く内容に関連があって、以前のblogの記事を読み返したら、noteらしい記事だったので移動させました)

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