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祖父に思いを馳せる

時々、父方の祖父に会いたい、と思うことがある。

その人は私が物心つく前に他界している。私自身の記憶にはほとんど残っておらず、かろうじて一緒にホームビデオに映っているところを後に見たことがある程度だ。

そんな祖父が生前趣味で書いていた文章の中に、祖父の自伝があることを最近知った。どうやら、私が生まれる十年ほど前に書かれたものらしい。父もまともには見たことがないというそれを、私はとても興味深く読んだ。

幼い頃から本の虫であったこと。絵をかくことや音楽にも興味があったこと。物理や図画工作が得意で、エンジニアを志したこと。紆余曲折あって、教師を天職としたこと。

読みやすく色褪せない筆致で綴られるエピソードは、どれもが新鮮でありながら、不意に涙が出そうになるほど身近に感じられた。私の性格や趣味は父に似ているが、それはその父である祖父に似ているからとも言えるのではないか。

だから、今の私が祖父と話をしたなら、きっとすぐに意気投合すると思う。好きな名作小説について語ったり、一緒に楽器を演奏したり、絵をかいたりしたい。物理のうつくしさを教えてもらいたいし、教師という仕事について訊いたりもしてみたい。私は現に上の世代の人間と話すのが結構好きだが、それが血のつながった、同じ屋根の下に住んだ祖父となれば、ますます話は弾むことだろう。

かつて、私の家には祖父の持ち物がたくさん飾られた応接間のような部屋があった。幼い頃の私はその埃っぽい匂いが苦手で足を踏み入れることはなかったが、古そうなソファと、ガラスのケースに入った帆船の模型があったことをうっすらと記憶している。もしもあの場所を、今の私がもう一度訪れることができるなら。心躍るものがたくさん見つけられたかも知れない。

しかしこれも、もう叶わぬ願いなのだ。家族や親戚からいくら話を聞いても、かろうじて納戸に残っている祖父の持ち物をじっくり見ても、私は祖父の姿を思い描くことしかできない。それであれば、普段歴史上の文学者に憧れを募らせているのと何ら変わりはないのだが、少しでも同じ時を過ごしたことがある祖父となると全く同じともいかないのだ。そこには、独特の切なさがある。

触れられそうで絶対に手の届かないところにいる人間。それでもなお、私は時折そちらを振り向き、そっと手を伸ばし続けるのだろう。



(見出し画像は、江ノ島方面への旅行中、江ノ電和田塚駅で暇潰しにエモい写真を撮ろうとしたときの一枚。)

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